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情動

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情動

何故こんなに頭の中がとっちらかるのか。
若いころは結構悩んだものでした。
50を過ぎた現在、図々しくなったせいもありますが、「まあ脳が勝手に反応しているんだから仕方ないか」と思えるようになったのはよかったと思っています。
そう思える背景には私たちが従来「心」と呼んできた正体不明の内部反応が、実は一義的に脳機能によるものだとわかったのが決定的でした。

21世紀になり、脳科学と呼ばれる分野が発達してきて、我々のような素人もその恩恵にあずかれるようになってきました。
当然それ以前からも脳は研究されてきたわけですが、fMRIをはじめとするコンピュータ支援診断などが急速に進歩してきた結果、脳機能の視覚化が容易になったことが一般化に拍車をかけたと私は考えています。
同時に様々な高度な技術が開発され、脳内の反応は原則的に再現可能なものであり、それに誘導される私たちの「心」は内部反応によって生じるものだと言うことを、科学は日々明白にしつつあります。
つまり基本「心という現象」は不可思議なものでも何でも無く、脳が作り出す反応の結果であると言う事実が私を納得させ、そして安心させてくれました。

頭の中がまとまらない。
注意集中現象を系統化できない、あるいは持続できないことと定義してもよいでしょう。
それは主に大脳皮質という「湧いてきた衝動を分析したり理由付けしたりして、従前からあるイメージと整合させる」領域の問題と言えます。
シナプスが勝手に発火する。
隣接するシステム同士の絶縁不備から起きる思考の混同。
その他いろいろ原因は考えられますが、いずれにしても集団生活を送る我々にとってはやっかいな問題だと感じています。
心の悩みの多くはこのような問題であると言えるでしょう。

さてでは「湧いてきた衝動」とはどんなものなのかを考えてみます。

複雑な思考や(自分にとっての)意味をとらえる機能は新皮質と呼ばれる、進化上新しい領域が主に行います。
特に前頭葉には認知をはじめとする高度な機能を担うモジュールが集中していて、私たちを私たちたらしめています。
人間は特に他の動物に比べこのあたりが発達しているので、戦略戦術を駆使することにより地球上で最強の動物として君臨することが可能になりました。

対して進化の系統樹を下へ下がってゆくにつれ、この新皮質と呼ばれる領域は相対的に小さくなるか、成熟度を減じてゆきます。
系統立てて考えると言うことが難しくなって、反射に頼る割合が大きくなる方向へ向かいます。

脊椎動物と呼ばれる動物の多くは、人に類似した神経系を持ちますが、中枢神経系の最下部を「脳幹」といい、その上は間脳と呼ばれる領域を備えています。
間脳に定義はいくつかありますが、人の頭蓋内から新皮質を取り去った、進化的に古い部分と言ってよいでしょう。
視床、視床下部、大脳辺縁系、大脳基底核などがそれに当たります。
似たようなシステムは系統樹的に下のほうでもみられますが、ややこしくなるのでひとまず脊椎動物に的を絞ってみます。

この脳幹、間脳と呼ばれる部位では、末端から送られてくる外界や内部の変動データを元に、生存確率を上げるべく常時反応が作られています。
これを「情動」と言います。
少し詳しく考えてみます。
例えば末端から「痛み」となるデータが送られてきたとします。
当然侵害刺激が加わったとして、自動的に回避あるいは排除を試みます。
この時、脳幹にある交感神経細胞は興奮し、連動する脊髄内交感神経細胞も緊急事態であることを末端へ伝えます。
血圧は上がり、血糖値も内分泌系の緊急反応で上昇。
骨格筋は副腎から分泌されるアドレナリンに修飾された神経によって応答性を上げられ、緊急事態に対応出来るようになります。
瞳孔はより多くの情報を取り入れるべく開き、酸素の要求量も上がるので呼吸は浅く速くなります。

反射的に反応した脳幹から間脳へ上行する情報は、まず大脳辺縁系に向かいます。
扁桃体ではこの刺激信号がいかなる危険、報酬を含むかが瞬時に判定されます。
また海馬においては過去のデータとの照合が行われ、往事に発生した感情とセットになった「記憶」が呼び出されます。
並行して新皮質においては、中長期的にはどのような反応がより有利であるかが吟味されていて、今の状況や身に起こっていることを認知してゆきます。

因みに海馬における「記憶」はわずかな刺激によって変容が可能であることは以前FBに記事を載せました。
利根川教授グループによる実験
これは記憶の上書きとも呼べる現象で、脳内の化学反応によって可塑性が誘導され、かつ一義的にその反応に記憶が依存していることを示しています。
しかし扁桃体にコードされた記憶は上書きされず、併存して保存されるとも書いてあります。
構造の下部でデータに対する操作性が下がるのは反射経路の多様性を確保するためなのかも知れません。

このような刺激入力に対して体の反応と脳による反応を合わせて「情動」と言います。
生存確率の上下を「良い悪い」の判断基準として、プラスされた様々な要因によって生じる「好き嫌い」の感情。
この感情は記憶という「生存確率を上げるべくデータベース化された実感を伴った経験」を形成する、もっとも大きな要因となります。
極論すればこの「好き嫌い」が生じない体験は、ただのデータとして放置されることになり、内部情報としての価値を与えられません。
これは言うまでもなく生存に関わりが無いと判断され、かつ新皮質においてもその理由付けをされないからに他なりません。

では体は回避排除したがっているのにそれをいまいち理解できないというケースはあるでしょうか。
答えは「ある」です。
基本的に情動は「認知」とは別のサーキット上で発生する反応です。
分離脳実験で明らかになったのは有名です。
危険なものとわかっていても言語化できない。
体の回避反射反応は観察されているのに、注意集中現象(≒意識)が発生し得ないために行動を起こせない。
逆に頭では「危険」の文字が浮かぶものの、情動としてはそれほど差し迫ったものを観察できないなど、私たちの認知と情動は乖離しうるものとされています。
認知も基本は記憶という情動の一要素に強く左右されますから、記憶が変容すれば認知も瞬時に変化することは容易に予想がつきます。

死から遠ざかり生存確率を上げる。
この基本命題に沿ったシステムの反応は一貫しており、どの個体にも大きな差違は(原則として)みられません。
進化上の新旧においてもほぼ一貫性は保たれていますが、その後の認知プロセスは人とそれ以外の動物では大きく異なっています(少なくとも私にはそう見えます)。
情動という(ほぼ)反射が私たちの中にまず生じ、これをより精緻に分析し、評価するシステムが追従する。
結果生じたデフォルトで備わっている評価反応、あるいは記憶に沿って行われる分析評価機能を縦横に使ってさらに生存確率の向上や確保を目指し生き抜く。
ただしそれ故に選択に「迷い」が生じやすく、解を見誤ることもしばしばある。
私たちというシステムは基本そのように方向付けられているようです。

そしてそれは「そういうふうに設えられている」だけであって、そこに良いも悪いもなく、もちろん誰かの意思でそうなったものでも無い。
そのことをただただ「そういうもの」だと理解する。

私が今ここにいられるのはこのことがわかったからだと思っています。

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