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見えないもの

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見えないもの

”それこそが私達の体のひな形である”

この論理(理論?)は、この仕事をしているとよく聞きます。
これは”見えない世界が先にあり、私たちの感じているこの現実は「現世(うつしよ)」である、と言う世界観によるものであるようです。
これはたとえなのですが、「水の中にいる人こそが本体で、その人がたてる波が私たちのいる世界」という感じでしょうか。

混沌より来たりて秩序をはぐくみ、そして混沌に還る。
きわめて抽象的にも聞こえるし、この方向に物事を考えている人にとっては「そうか!」と膝を打つ言葉かもしれません。
その混沌そのものこそが全ての出発点であり、帰結点であるというわけです。

東洋的世界観や宗教観が染みついている私にとっては、結構な説得力を持つ話ではあります。
少なくとも疑似人格で語られる超自然的存在が私たちを作った、と言う話よりは。

実は治良という行為もこれらの世界観を前提に組み立てられています。
特に遠隔治良に関しては、この超現実的な前提をほぼ完全に「間違いない」と考え、それをもとに運用されています。

しかしながらいくら元の世界(と推測されるエリア)に介入しても、現実の私たちに予想通りの効果を100%保証することはできません。
当たり前のように効果がでないことがあり、その時々に必要なテクニックを駆使して全体をおさめるわけです。

ではこの「見えない世界ひな形説」は間違いなのでしょうか。
もちろんそうではありません。
ただ私がおっちょこちょいで、全てを”本当かどうかわからない説”で説明しようとしているだけです。
いつものことですね(笑)。

たぶん、ですがこの考え方は現実からそう遠いところにある考え方ではありません。
しかし治良という目の前にある仕事に応用するためには、何かが足りないか、あるいは深さが十分ではないかもしれない。
最近はそう感じています。

治癒という現象が祈りという行為と関連があるかもしれない。
以前そう書きましたが、この祈りというのは実はより深いエリア、つまり混沌(と言う名の実態)そのものとつながるための行為なのか。
だんだんとそう思えてくるようになりました。

純粋な祈りなるものがどのようなものなのか私にはわかりませんが、自分の内側のありように気づくことができるなら、それはきっと手に入れられるものなのだろうと想像します。

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