越田治良院へようこそ あなたのココロとカラダをリセット

仏教概論22

FrontPage

仏教概論22

命の重さは皆同じなのか。
割と良く耳にする話、あるいは議論ですが、このあたりを原始仏教はどう考えていたのでしょうか。

まず命の定義から。
人為的仕掛けなど無しに自己組織化を繰り返し、かつ外部から活動源を取り入れ代謝/排泄し、自律的なシステム運営を行っているもの、あるいはその状態を指す。
生命という現象を一面的かつ大雑把に定義すればそうなるかと考えます。
なので、所謂「生き物」は動物植物微生物に至るまで、その人為的な区別とは別に“等しく生きている”と考えることが出来ます。
成長あるいは死なないようにあがいている状態を私たちは生きていると認識するわけですが、その自律的メカニズムの違いはともかく、生命活動自体はその程度にしか定義できていません。
この点においては「生命は皆等しい」と言うことになります。

仏教における不殺生戒をアヒンサーと言いますが、「まあ無理だと思うけど殺さないことでわかることがあるから守ってね」的な意味合いが強いものだったと記されています。
虫をも殺さないようにしたとされていますが、事実だとすればそれだけでスーパーエクストリームモードとも言うべきクリア不可能なゲームを強いていたことになります。
実際“同じ重さの命”をもつはずの微生物は、外から取り込まなくても常に全身で、そして腸内においてはそれこそ100兆単位で常時入れ替わって(生死を繰り返して)います。
ものを食べるだけ、呼吸をするだけで数兆もの微生物の命を・・と言うのが私たちなのです。
ついてで言うと私たちのほぼ全数は、こんなことにかまけることなく日々を過ごしています。
つまり「無自覚な殺生無しに生命を維持することは(少なくとも私たちには)無理であり、誰も気にしていないことをよいことにこれらの事実を棚上げして、目に見えるところを戒律として強調していた」と言うことになります。
もっとも、当時微生物などというものを知るものはいなかったでしょうし、知っていたとしても「微生物のために命を投げ出せ」と強要もしなかったでしょう。
なぜなら宿主である私たちも微生物と同じように命を持っているから、それを自主的に失わせて他を助けるというのは、自主救済を第一とする仏陀釈迦の教えに原理的に背くからです。
たぶん不殺生が絶対必要と思っていたわけではなく、考えるためのチャレンジの一つとしてみていた可能性が高いと言えるでしょう。
他の戒律、不妄語や所有、女犯などが「絶対厳禁」とされていたことに比べると、十分条件程度のものだったのでしょう。
つまり当時から「命は平等に尊いから殺生はだめよ」ということではなかったと推測されるわけです。

さてその一方、現代社会のそれも先進国に暮らす私たちは一般的に大型あるいはコミュニケーションをとれる(と推察される)動植物(イルカや鯨に対する過剰な反応は好例ですね)に対しては、その生殺与奪権の行使に関して慎重になる傾向があります。
その代表格が同じ人間に対してであり、中には人ひとりの命は地球よりも重いと発言する(普段他の命を食べていたであろう)政治家まで過去にはいたようです。
このあたりをどうとらえるべきでしょうか。

ここで良心というものについて考えてみます。
自分以外の生命も簡単には取り上げることをためらう。
ここから敷衍してすべての生命が等しく重いので自分以外も大切にしたいと考えるのは、この良心という脳内サーキットが働いているからだと言えます。

生まれたばかりの子供あるいは野生の動物にそれを求めることが出来ないことから、これらは社会的な動物である私たち人間が、その集団の中で時代とともに徐々に作り上げてきたある種の“文化”で、生まれつきもっている性質とは別物であるとみるべきかと考えます。
脳内にはミラーニューロンと言う“ものまねモジュール”があり、自分以外の生物を反射的に模倣する機能が備わっていて、同時にここでは他人の苦痛をはじめとした感情などを読み取る反応も起きているとされています。
痛そうな人や動物をみて、こちらの方も痛みがあるような気になる、と言う反応の主役と目されているのがミラーニューロンであると言うわけです。
ただしこのミラーニューロンは、「おそらくこのあたりにあるだろうし、そういう反応も観察されているが、完全に特定できていない」ものであり、単独の神経核というよりは、サーキットあるいはシステムと考えるべきもののようです。

同時にそれはとても限定された反応で、私たちに近い大きさや似たような行動をする(つまり人間の感覚に対して親和性の高い)ものには共感をおぼえやすく、反面見えないもの(眼に入らないほど遠くのものを含む)あるいは感じているであろう苦痛を想像しづらい生き物に対してはそれほど“同情”を憶えることがないようです。
特定の生き物や種族に対するほかに比してあふれんばかりの共感力を発生させる我々の、その落差の大きい反応の背景にあるのはどのような働きがあるのでしょうか。

おそらくですが共感を発生させやすい生物に対して、わたしたちはその表現されている苦痛や喜びから自分にとってのそれがどのようなものかを疑似体感するシステムが備わっているのではないか(ミラーニューロンを中心とした複雑なシステムだろうと考えます)。
現時点で私はそのように考えます。
そこに長年培われてきた“文化/倫理”がミックスされ、社会における自分の立ち位置の確保、あるいは集団から排除されるリスクを回避するために必要な振る舞い(他の個体や集団に対する共感や親切さ)を無意識のうちに表出させる原動力となると私はみています。

この原動力が働きかけるのは多くが「苦痛」を起ち上げる脳内システムで、疑似体験を通して得られた擬似的な苦痛/恐怖を核に行動やその思考に強く制限をかけることになります。
「他人が嫌がることをしたくない」のはそういった生理的社会的な理由があると考えられます。
良心とはそういったものからできあがっているのではないか。
個人的にはそのように思います(うがち過ぎでしょうか)。

これは見方を変えると「自分という殻の中に他人というイメージが入り込み、結果として自分というシステムが拡張された」ことによる反応ということになります。
モジュール/サーキットの働きによって共感をおぼえた他の様子が、自分以外も自分と同じく感じていると想像するにたりる経験をもたらしてくれた結果と言うことともいえます。
これが何らかの理由(例えば上記の生得的なモジュールないしはそれで構成されるシステムの問題)で機能しないと、所謂他人を“自分と同じ人間と認識できない”ようになります。
そこには共感力もそれ故に発生する罪悪感も存在せず、常に自分だけが生命であるとの認識しかない生理状態が確立されます。
何しろ他人の行動や感情を取り込む機能がないので、そこには擬似的にしろ感じるはずの痛みや恐怖、不安、喜びそしてそれがもたらす賛同や憐憫などが発生しないのですから。
イメージが難しいあるいはイメージが出来なければ、それは自分にとってないものと一緒であることは、微生物の考察をみても明白です。

同時に私たち生物は基本「死ぬな、苦痛を回避せよ」と常に脳に命令されていることを考えあわせるに、良心と呼ばれる“優しさ”は、生存を有利にするシステムから派生した後天的なオプションと言う側面が強いと言えそうです。

優しい気持ちを否定するわけではありません。
優しくされれば私もうれしいですし、それを他に受け渡したい、つなげてみたいと思う気持ちは私の中にもあります。

一方ではそれを拡大解釈する(根拠の希薄な)理論論理には疑問を持ちますし、なぜそのように私たちが感じるのかを納得させる説明にはほとんどお目にかかったことはありませんでした。
私が今まで接してきた“仏教”の中にもそれらは当然見当たらず、必然的に原始仏教にまで遡って調べてみる必要がありました。 
そこで“命の大切さをあまり重要視していない”、反社会(=超個人的)的とも言える釈迦の思想に立ち返り、なぜ我々の文化が「命の平等さ、尊さ」をここまで喧伝するに至ったのかを改めて考えることが可能になりました。

この稿の結論:残念ながら命の重さは決して平等ではあり得ない。
生物は基本自分の命だけが大切で、それ自体はどの個体においても同様であり、逆に自分以外の命の重さを自分と同一に感じ取るのは、生物学的原理的には非常に難しいと言える。
その点においては命に軽重のレッテルを客観的に貼ることは困難である。
一般に通説として認識されている「どの命も軽重なく平等に尊い」という思想を支えるのは「良心」という“文化”であり、それらは脳の生得的モジュールが作るサーキット、及びその働きが原動力となって、苦痛や恐怖を刺激するが故に強化される、生き残りシステムの一部であると推測される。
事実、社会システムが不安定で自分の命の確保もおぼつかなければ、同じ人間である他人はもとより、様々な生物に対して”自分と同じように最優先の命”と考えることすら出来なくなるのは、世界の様々な情勢を分析するまでもなくはっきりしている。
つまり周辺情勢如何によって、自分以外の命の重さは簡単に変動する。

ただし自分のことにように他を思いやることが出来る人(多くの母親と呼ばれる人たちが我が子に示す態度もその中の一つでしょう)が存在することもまた事実で、原則からはずれた例外的なケースであると考えますが、それを貫いている人を見ると感動もしますし畏敬の念を抱くのもまた自然な感情であることを認めます(個人的には今は亡きマザーテレサは尊敬の対象です)。

本能とも言える脳内反応が私たちの世界の基盤であり、すべてでもある。
それが故に常に不安と恐怖に苛まれ、これらを払拭あるいは糊塗するためにさらなる刺激を欲すること自体がさらなる苦を呼び込む。
同時に生理を超えた利他行動も可能で、このあたりを仏教ではどのようにとらえていたのかを研究することが、今後の課題の一つと言えそうです。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL.

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional