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治良の講義:再び

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治良の講義:再び

先日クライアントの方から「簡単でもいいから治良を教えて」と(かなり強硬に)言われ、本当に初歩的なこと(でもとても根源的で大切なこと)を講義しました。
以前にセミナーをしてみたとき「自分には他人を教える才能など無い」ことに気づいたので、不安を持ちつつも久しぶりに頑張ってみました。

治良の目的は「当たり前の状態への誘導」であり、そのためにエネルギーの流れを整えるためのアプローチを使うことになります。
ただしここで言う「エネルギー」は正確な物理用語としてではなく、体を動かす根源的な何かと言う意味合いです。

そんな話の中で「治良はわからないものはわからないままに扱う」というお話をしました。

「は?」

そう言われたときのその方の最初の反応です(笑)。
当たり前ですよね。
そんなことを言われて納得できる人なんてそうそういません。

「治良」の基本の一つは「できるだけなにもしないこと」であります。
これは誤解の無いように説明するならば「こちらの決めつけを押しつけない」となります。

私たちのように施術を業務で行っているものは特にその傾向にありますが、自分の考える健康観に合致するようにクライアントを誘導します。
これはこれで間違いではありませんし、それで結果を出している人もいることから、一つのあり方と言えます。
同時にこれは脳(私?)の悪しき習慣で、決めつけることで楽をしようとすること、少なくとも私にとってはそれに近い方向性を持っています。

問題はこうした「楽」は、私の行っている「治良」とは極めて相性が悪いと言うことです。

そんな理由で「決めつけないで、感じたままを観察してみる」ことが治良においては重要になる。
だから理解の出来ない感触を、評価も関連付けもしないままにしておく。
わからないままに扱うとは、治良においてはそのように理解すべきキーワードとなります。

感覚器から入力された「データ(意味をなしていない情報のパーツ)」は、記憶というデータベースの中にある「情報」によって関連を持たされ、はじめて「自分にとって意味のある何か=情報」になり得ます。
特殊な訓練を積んだ人や目覚めた人(@仏陀)でも無い限り、今感じて意識された感覚をそのままにしておくことは出来ません。
今私たちの周囲に拡がっている「ありのままの世界」を私たちはそのまま認識できず、限られたデータだけを拾い上げ、既に内部で加工された記憶に取り込むようにして、意味を持たせます。

私たちが感じている「世界」は、現実の世界から切り取られ、自分の内部に整合するように脚色された「ゆがんだ認識」そのものです。
自分の好みに合うように作られた歪みだらけのレンズ越しに見える世界、と言えばよいでしょうか。

治良においてこれらを主役としたとき、まず「自分のイメージに合わないデータ(感覚器からの入力)は無視される」という弊害が現れます。
確かに何かを感じたけれども、自分の記憶に整合するものでは無いのでなかったことにする。
言い換えるならば、無意識レベルが拾う(大抵は大切な)データは、意識される「自分にとっての正しさを持った情報」にそぐわないために捨てられることになります。

クライアントが発するサインは膨大な量に上りますが、そのほとんどを捨てざるを得ないのは、そのすべてのサイン(データ)を脳内で意味づけて取り込むと、あっという間にオーバーフローしてしまうからです。
しかし実際問題として、それらのデータを無視するのは治良という行為においては自らを強く制限することと同義になります。

ではどのようにすべきか考えたところ、「脳が意味づけする手前で止めてみる」に行き当たりました。
つまりは「感じている」で止めて、それ以上は脳に出しゃばらせないようにしてみるわけです。

ただし・・・
ただ感じる世界というのは思った以上に不安定で、ともすると珍しい感覚に集中してしまい、そこに何らかの意味を見いだそうと(半ば自動的に)反応してしまいます。
脳の基本仕様がそうなっている以上仕方の無いことかも知れませんが、なにもしないというのはかくも難しいことなのです。

わからないものを無理矢理意味づけしたり、出来なければ捨てる。
体は心(意識状態)に従いますから、これではいつまで経っても自分の「知っている」こと以外にはたどり着けないことになります。

そんなわけで今まで講義をしてきた中で「なにもしない」コトを強調してきたわけですが、考えてみればこんなけったいな話をそうそう納得できる訳なんてありません。
試行錯誤してみて、もっとも実践的で外しづらい考え方として「わからないままに扱う」という“言葉”を使うようになりました。

ともかく最初はこの言葉を心の中で唱えつつ、じっと自分の意識状態の変化に注目するようお願いしました。
私たちは原則として「差分」だけを検出するように設えられているので、変化の度合いを心の中で言葉にしてもらい、それを繰り返してもらうようにしました。
当然その間は医学的経験的な記憶との照合は極力避けてもらい、ただ不安の中に漂っていただきました(笑)。

本当はもう少し複雑なイメージですが、全く専門知識や経験の無い方にはこちらの方がよかったようで、大変喜んでいただけました。
どうしてもだめなときだけ治良をしてもらうが、日常の管理は自分で出来るようになったとのこと。

自分の中を再確認できたこともよかったですが、それを自分以外の人に伝えることが出来たのはそれ以上の収穫でした。
またこれをベースに考えて、いろいろ磨いてみたくなった講義でした。

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