わからないものをわからないまま扱うとはどういうことか
わからないものをわからないまま扱うとはどういうことか
前前稿治良の講義:再びで書いたように、久しぶりにセミナーらしきものを開いたわけですが、そのときの方とまた少し話す機会がありました。
受講生さん(以下受):感じることが大事であることはわかったが、私はそれを医学的な知識(ある程度はわかっているようでした)と結びつけて説明してみたい。
私:イメージが限定されるとうまく反応しなくなるよ。
受:それでも何らかの医学的な変化はあるはず。医学的な説明がつかないことって、今はつかないだけでしょ?
私:そうかも知れないし、そうではないかも知れない。単に知識の蓄積や解析が不十分なだけかも知れないし、原理的つまり医学や科学が定量不可としている部分を扱っているのかも知れない。
受:・・・・
明らかに不満そうでしたが、経験的に「医学に無理矢理当てはめるとつらい」ことがわかっているので、ともあれわからないものをわからないままに扱うことが大切であると、再度強調しておきました。
わからないものをわからないままにしておく。
以前にも書いたとおり、実はとても難しいことの一つなのです。
データ(感覚)が脳に送られたならば、それは可能ならば大きな情報ネットワーク上で扱いたい。
それが脳内での整合性を高めることとなり、結果的にリソースの節約になるからです。
既に加工され、脳内ワールドを形成している記憶にリンク、あるいはリンクさせないなど、いずれにしてもデータのままにしておくのは、意味のある情報として扱いたがる脳の自然な挙動に反すると言えます。
治良に必要だが、脳の自然な振る舞いに反する「なにもしない」という方向性。
どのように訓練すべきなのでしょうか。
色々あるとは思いますが、
・まず何かを感じたら「次へ」ゆく
感じたことを掘り下げたりせずにそのほかの感覚へ意識状態を移す。
感じた時点でエネルギー(あくまで体を動かす不可視な何かという意味です)レベルの偏りは解消されるので、それ以上は触れない。
・感じたという意識現象と、無意識との境目をイメージしてみる
少し新しいやり方です。
本来的には意識と無意識の間には厳密な境界はありません。
この二つを同じものの違う表れとして認識できるように考えを進めてみるわけです。
私はこれらを提案します。
無意識は認識できないからこそ無意識であるわけで、現状ではどう頑張っても「わからない」とだけしか言えないものをであります。
認識できた時点で無意識領域ではなくなり、時々つながるこれらを「別々の領域」と考えると色々齟齬が生じやすくなります。
上のやりとりにあるように、認識できている医学的な知見に、その時点で認識不可能な領域を合致させようとした途端、十分につながりが見えないままの二つは強制的にくっつけられて、意識によるオーバーライドが起こります。
これは通常、イメージの制限を伴いますので、イメージがすべての治良においてはまず注意すべきことであると私は考えます。
しかしこれも再三再四申し上げますが、意識現象そのものが悪いわけではなく、ここに居着いてしまうことが治良上の制限となって現れると考えられるのです。
「心を自由に」
これが確かに大切なのは間違いの無いことですが、簡単にできるくらいなら誰も苦労はしません。
それぞれが「自分にとっての心の不自由とは」を考えながら、ひとつずつ枷を外す工夫と訓練を行うしかありません。
わからないものをわからないまま扱う。
あるいはわからないと言うことがわかるとは、そのような段階を踏んではじめて実感できることだと、私は考えます。