仏教概論3
仏教概論3
仏教概論、仏教概論2では素人の好き勝手な読みづらい文章を書き連ねていますが、やはりいろいろと調べ考えしているうちに、何かが変だと思ったり、ああそういうことかと腑に落ちたりします。
そんなわけで「3」です。
さてこの稿では仏教におけるハイライト、「覚り」についてです。
一連の書き込みでは「悟り」だったり「覚り」だったりと一貫性がありませんが、3からは「覚り」で統一してみたいと思います。
仏陀という言葉は「目覚めた人」を意味するサンスクリット語の音を元に当てた漢字なので、ここでは「覚醒」を想起させる字にしてみます。
またお釈迦様の呼称はここでは「釈迦」のままにします。
本来釈迦は「自分の悩みを解決したくて」出家をしましたが、目標は「目覚める」ことでした。
あーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返しながら一応の目標達成をみたのが35歳。
当時の平均寿命からすれば人生後半戦の最中、といった時期でしょうか。
仏陀となった釈迦が覚りを開いた後、どのような人生を歩んだのか。
細かいところは専門書から一般書まで幅広く出回っているのでそちらを参照いただくとして、35歳で目覚めた彼はその後80歳くらいまで各地を回りながら教えを説いた、というのが共通した認識のようです。
蛇足ですが、どうやら当時のインド社会では「起きたことを時間の流れに沿って記録する」という習慣が薄かったらしく、釈迦の歴史もはっきりしない部分が多いそうで、没年齢も大体そのくらい、ということだそうです。
研究者の書く一般書を読むと「戯論(意味のないやりとり)を嫌い、時には弟子に対して激怒した」ともあります。
神秘怪異を排除し、現実と向きあいつつ思索を重ね、実践方法を模索し続けたともあります。
当たり前ですが、彼は神でも仏でもなく、歴史に名を残すほどの哲学者でやや変わり者だった、というのが本を読んだ私の感想です。
釈迦が活動していた期間、あるいはその後も釈迦の主張を忠実に実践する人たちの間では「財を作る/蓄える」行為は一切御法度だったそうです。
小乗/大乗に分裂してから論理操作によって徐々にそういった方面も取り入れていったようですが、釈迦その人の言い分は「修行の邪魔になるからだめ」だったそうです。
いわゆる商行為はもとより、畑を耕すなどの自給自足もだめ。
猟を行ったりするのは不殺生の戒律が厳しく禁じていますし、植物をとることも原則だめだったみたいです。
で、托鉢なる行為で糊口をしのぐわけですが、これは「いったん誰かの食料として蓄えられたものはすでに死んでいるので口にしてもよい」という論理からなるものでした。
なんか牽強付会というかかなりご都合主義の解釈に聞こえますが、ともかくそうやって彼らは食料を得ていたわけです。
現実問題として「心身を惑わすからやってはいけない」行為をしている人たちがいないことには生きてゆけなかった。
これは矛盾と言うよりは「自分の修行の完成を最優先」の立場では必然といえる話で、大衆/余人を救おうとか、世界平和を願ってなどという動機の維持が難しい目標を釈迦自身が最初の段階で考えていたわけではないことがうかがわれます。
現代日本で一般的な仏教のように「救済」を行う対象が他人であると釈迦自身が説いていたわけはなく、あくまで覚りによって自分の抱えている苦しさからの脱出あるいはその解決を目指していたわけです。
戒律は本来そのために存在し、他者に向けたものではなかった。
ただそれがだめとか、現代の仏教はおかしいとか、そういう話をしているのではありません。
治良においては冷静に内部を、そしてその先にある「よくわからない、主体が曖昧になるな何か」を観察し続けなければならず、その行為を行うに当たっては仏教(をはじめとした信仰という行為)の作り出す心理状態が最適である、と考えているのです。
そして仏教を勉強してゆくほどにそのよく考えられた心身の処し方と具体的な方法論の数々に驚きを隠せなくなります。
それもこれも釈迦が現実を可能な限り突き詰めていった結果であり、その背景にあるまずは自分の覚りから、というぶれない方向性があったからだろうと思われます。
徹底した個人主義。
仏教を考える上では絶対に外せないキーワードのようです。
話を元に戻します。
強烈なまでに頭がよく、論理を重んじるが故に社会不適合っぽくて個人主義だった釈迦ですが、目覚めて以降、神話では梵天という神様に請われて布教の旅に出ます。
行く先々で当然のように問題が起きたり、面倒な頼まれごとをしたり、ひどいときには弟子に教団を乗っ取られそうになったりします。
私ならストレスで血圧や血糖値が危険領域に飛び込んだまま昇天してしまうのでしょうが、さすがに目覚めた人はそうは簡単にへこたれない、もしくは意に介さなかったようです。
神話の下りはともかく、自分自身のためだけに始めた修行において一応の目的を達成したはずの、つまりこれ以上すべきことが見当たらないはずの釈迦だったはずですが、どういった心境の変化なのか、自ら苦労して手に入れた「覚り」の体験を広める旅に出たようです。
一応「死後の恐怖」を克服したと思われる釈迦が「生きた痕跡を残したい」と思って自分の考えを広めようとした、というのは考えづらい。
他人を救うなどとは(本心では)あまり想定していなかったようなので、そういった気持ちからと言うわけでもなさそうです。
これは推測でしかありませんが「いったん覚りの境地に達したとしても、それですべて障害なく進むというわけではなく、相変わらず現実のまえでは悩み苦しむ場面があり、場合によっては覚りを手放してやり直した可能性がある」とおもわれます。
正確には覚りとはそういったものではないか、と私個人は思ったりします。
現実が明確に認識できるようになるのが覚りで、自らを悩ましていたものの正体も鮮明になり、それ故に対応も自ずと違ったものになるのではないかと考えます。
よい例えではないかも知れませんが”近眼や乱視で生きてきた人が完全にフィットしためがねをかけて初めてものに輪郭があるのがわかった”という感じではないでしょうか。
ただしそれで視力が10.0になるわけではないし、壁の向こう側が透視できるようになるわけでもない。
物事があるがままに見えるようになったと言うことが覚りを得たということではなかろうか。
私はそう考えます。
また繰り返しになりますが、基本的に何かを乗り越えたときの脳の反応は、私たちを最も強く虜にします。
もしかしたら(あくまでもしかしたらですけど)釈迦も手に入れた完全さだけでは物足りなくなったのかもしれません。
それとも覚りを得られない大部分の人たちを心底憐れに思い・・・・ということなのかもしれません。
そのあたりはもう少し勉強してみたいと思っています。
一方ではゆかいな仏教にあるように、ハナから周囲とうまくやるなんてことを考えていない故なのか、その戒律遵守へのストイックともいえる姿勢は他の宗教よりも厳しい傾向があるようです。
戒律遵守度と社会との隔絶度は比例関係にあり、目覚めを希求すればするほど社会生活から離れざるを得なかったというのが実際のところだったと多くの本は記しています。
また当時のインド社会の傾向として「現実生活から離れるほど尊い」とする気風があったとのこと。
言い換えるなら現実に関わる度合いが大きいほど修行の妨げになり、解脱する可能性が低くなる、とでも考えていたようです。
本当のところはどうだったのか、これも私にはわかりません。
ただ「何となく気持ちはわかる」様な気はします。
これは私個人の経験的な話ですが、一切の不安から逃れたいと考える人間の心理パターンとして「自我とそれ以外の境目」に違和感を感じるというのがあります。
どこまで行っても(いわゆる哲学的な)自我に確信が持てず、他との境界を強調する現実生活になじめない。
結果ついつい内省的になり、自分の考えに絡め取られやすい。
行過ぎると社会生活からの乖離が甚だしくなり、はっきりと優劣のつく事象に嫌悪感を持つ傾向が出てきます。
悠久の時を生き、それがいつまでも終わらないとする考えを持つ人たちにとって、現実生活は足かせや躓きの元でしか無いのかもしれません。
いずれにしても(究極的な意味において)自分に正直に生きるというのは集団生活を余儀なくされる私たちにとって少なからず苦労が伴うようです。
しかし「好きなことを追求し続けて生きる」つまりは脳の興奮を常にハイレベルに、そしてそれを適正に維持するというのはそういうことなのだろうと思われます。
覚るのも(いろいろな意味で)楽ではない。
覚ったわけでもないのに早くその後を心配している私は案外幸せなのかな、と考えます。