仏教概論4
仏教概論4
自分でも「本当かな」と思いつつあれこれ書いていますが、素人が自分の考えを書いているだけと言うことで無謀にも「4」となりました。
さて、仏教の話と言ってよいのかどうか今ひとつ不明ですが、この稿では「仏教における愛」について考えてみます。
50近くにもなってこの言葉をいじるのはこっぱずかしいようなむずむずするような気もしますが、哲学を考える上では避けては通れない概念と思われます。
よくよく耳にもしますし、会話の中にも出てくることが多い(私はそうでもありませんが)言葉ですが、さてその定義は、となるとしっくりくる説明は少ないように思えます。
アガペーだのエロスだのは専門書をお読みいただくとして、日本語で語られるこの言葉を一言で説明するなら「他との区別(それも苛烈なまでの)を行う気持ち」となりましょうか。
恋愛においても親子の情愛についても、根源的にはこの考えに根ざした上に構築される概念であると私は考えます。
なお念のために申し上げますと「だから愛などというものは云々かんぬん」という話ではもちろんありません。
これがいったい私たちにとってどのような位置づけの言葉/概念なのかを、素人が可能な限り考えてみよう、というお話です。
キリスト教などで広く使われる場合とは少し意味合いが違ってきますが、仏教的にはこの言葉、あまり肯定的ではないように思える話がごろごろしています。
愛着、愛欲などもその一つで、愛と称される気持ちが引き起こす「周りが見えなくなるが故に起きるこだわり」などと評価される、いわば覚りの邪魔になるものの一つとして排除される傾向にあるようです。
覚りを目的とした修身マニュアルである仏教の修行において、ありとあらゆる「心身を惑わすもの」は排除の対象となり得ます。
常にその脳の状態を一定の範囲内で作動させるため、不用意に感情を波立たせたり、それに身を任せたりは御法度とされています。
最終的にはそれが起きてもそれ自体を眺めていることができるようになる、はずですが、途中までは邪魔者扱いされています。
ここで覚りのもたらすであろう心理状況を改めて推測し、考えてみます。
正しく、ありのままに物事(あくまで物事です)が見える状態を指す言葉として、仏教概論3で結論めいたことを書きました。
八正道ではこれは身を律するコツの一つでしかないようですが、まあ素人なのでそのあたりはご勘弁を。
すさまじく研ぎ澄まされ、体の内外で起きる変動に対して瞬時に追従しながら、反応後はすぐに収束するため自身のリアクションに対して振り回されず、結果として何ものにも拘泥する必要が無く、心身ともにきわめて平穏な状態。
覚りがもたらす心理を文字にすれば上記のようなものだろうと私は考えています。
そもそも仏教において心というのは“現象”としてとらえられており、決して実体を伴う何かではないとされています。
さらに言うなら心のみならずすべてがある種の幻的な意味しか無い、と言っているように私には見えます。
これを自分なりに敷衍してみるに、脳の中で生成され強化されてきた自我が、自我自身を維持するために様々な外的刺激から誘導される快不快を必要としているため、平穏さとは反対方向へ向かうような行動を続けてしまう。
脳という臓器も他の器官と同じように使わなければ衰えてしまう運命にある。
それはすなわち常に伝達物質のやりとりが必須と言うことであり、イコール外的刺激による変動が最も手っ取り早い。
同時に内部で精緻に反応するオンデマンドな伝達物質生成メカニズムにブレーキをかける結果にもなる。
覚りは言うなれば自分内部以外の刺激を必要としない、脳の自給自足ともいえる状態を作り出しているように私には思えます。
さてこの稿の主題は「仏教における愛」でした。
ある対象を他とは敢然と区別する行為ないしは心理状態を愛だと考えるのなら、私の考える仏教としては何が問題となりえるのでしょうか。
まず区別と言うことを考えてみます。
ある対象を他とは区切ってしまい、その中でいろいろと意味をつけてさらなる区別/差別化をはかる。
その結果その対象に対して“本来ありもしない”意味を見いだし観察/思考の幅を狭めてしまう。
よほどの超人か頭のよい人ならともかく、私たちの脳の一般的な機能として”対象を認識することによって生じる安定”を好む傾向があります。
脳という臓器は意外と休まない臓器で、ぼーっとしているようなときでさえ、すべての刺激を記憶とむすびつけたり振り分けようとしています。
そして刺激は常に休み無く生じているため、放っておくとその特性故にいつも大量のタスクを実行してしまうのです。
整然とした流れの中で行われる実行状況ならば無限の認識も夢ではありませんが、ほとんどの人間はその途中で頭がパンクしたり、体の制御状態に支障を来す羽目になります。
これから逃れる方法として「注意を何かに向けて他の処理を遮断ないしは最低レベルに低下させる」があります。
つまりまとめ上げられない情報を雑音として感じてしまうため、無意識レベルでシャットアウトしようとしているわけです。
それを強化するのが「愛」であり、それが安定して一人歩きし始めたものが「執着」の正体(の一部)ではなかろうか。
もちろん愛以外にも執着の元はたくさんあるわけですが、飲む(広義のドラッグ)うつ(ギャンブル)などは社会倫理や法律がそれなりに規制しているのに対し、むしろ推奨される傾向にある愛は、その正体をきちんと見極めないと、規制がない分だけやっかいな要素になり得ると私は感じています。
業田良家著 ヨシイエ童話 では、「愛なんて信じない!」と強く叫んだ末に残るちっぽけな感情が愛である、といっています。
愛欲がだめではない。
愛着が醜いのでもない。
その正体を知らずに「至高のもの」と信じてしまうところに陥穽がある。
私の考える仏教はそう言っているのではないかと、最近よく考えます。