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仏教概論13

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仏教概論13

前稿仏教概論12で「仏教はいわゆる幸せの追求を目的としているわけではない」と言うようなことを書きましたところ、反発や驚きの声、反響をいただきました。
ある程度は予想しておりましたが、それ以上に仏教、正確には釈迦の主張(初期仏教)というかしてきたことが大きく誤解されているだなと、改めて思いました。
もちろん勉強不足によって私が間違って認識しているだけかも知れませんけど。

とりあえず「大きく間違ってはいない」と言うことにして、もうちょっと考えてみます。

前稿に書いた「幸せ」の定義ですが、現代社会が推奨するそれは「喜びに満ちた状態」を想定しているのだろう。
個人的にはそう考えます。
私が思うにそれは少なくとも苦の原因となる”煩悩”の滅除をその最終目的とする釈迦の教えとは違うように思えます。

たとえてみるなら料理を作るに当たって、下準備のつたなさを料理法や調味料で調えるのが前者なら、そもそもまずいと感じるであろう要素を全部取り払って料理自体はごく簡素にしようとしたのが後者、とでもなるのでしょうか。
もちろん前者のような生き方を否定するのではなく、釈迦が見つけ出し後進に受け渡したノウハウは、生きづらさを抱えやすい状況にある我々にとってひとつの目標になり得るのではないか、と言うことなのです。

私たちの苦悩の原因のひとつに「イメージと実際のずれ」があります。
脳という臓器がとりたがる性向の中に、事象を出来るだけパターン化してさらに可能ならばそれにつながる行動をパッケージ化したい、が挙げられます。
「その方がたくさんの場面に効率よく対処できるし、何よりも自身のリソースを節約できるから」というある種の生物学的な制約がその理由だったりします。
何度も同じようなことを書いて恐縮ですが、脳は脳自身が一番大事であり、そこから生み出される心はもちろん、体の方も基本的には逆らうことが出来ないようになっています。

パターン化、パッケージ化された思考や行動は当然のことながらほとんどの場面において現実との乖離を生じさせることになり、これが私たちを苦しめる”無明”を作り出す背景になります。
融通無碍にその場の判断を行えるならばそれに越したことはないのでしょうが、何しろ集団でシステムを作り上げることで安定するのが我々なので、どうしても周囲の反応をうかがいながら行動せざるを得ない場面が多くなります。
それを日常としているうちに「自分の欲求ってなんだっけ?」となり、ますます内外の乖離がひどく=無明が深くなるという寸法です。

先の料理の話で言えば、忙しいからちょっとずつはしょって味がおかしいところは調味料でちょいとふたして・・・なんてコトをし続けて、気がついたらなんだかわからないものにしてしまった挙げ句、自分の食べたかった味もすっかり忘れてしまっていた、なんてものでしょう。
だから他のことをしておいしくない料理のことをごまかそうとするわけですが、そのためにはより楽しい、強い刺激による快の反応を必要とします。
これはその後のより強い落ち込みを誘発するのが生化学的には自然な流れなので、それを回避あるいは忘れるためにまたぞろ快の刺激を求めてあれこれ試す。

世間一般に言う”幸せの追求”の正体とはそんなところではなかろうかと考えます。

釈迦はこれに対して、そもそも欲求不満とは、と言うところから初めて、それを理知と自己鍛錬によって生じさせない(あるいは極限まで少なくする)方向性を打ち出したと言えます。
上の話と合わせて別の例えをしてみます。

コップに水が入った状態を思い浮かべてみて下さい。
コップは自分の脳であり心です。
水は大脳生理学的に言えば神経間伝達物質の状況と言うところでしょう。

このコップは特別な物質で出来ていて、水で満たしていた方が安定する性質があります。

一番よいのはもちろんぎりぎりまで水の入っている状態、それも表面張力で盛り上がっているくらいです。
完全に満たされ、そしてあらゆる刺激に最も敏感で、自身の質量故に収束が最も早い状態にあるからです。
ただし常にこうなるように水の調節を行う必要があり、コップ自身の状態にも気を配る必要があります。
ついでにいうならコップを揺らして水をこぼすようなこと(心を揺らすような刺激)には一切近づかないよう、釈迦は厳しく戒めています。
生涯鍛錬を怠るなかれと釈迦が語ったのはそういうわけがあります。

さて凡人たる私を含めた大部分の人間のコップの水は、通常容量よりも少ない状態にあります。
これは脳の労力を少なくしようとした結果、コップ内部にパッケージ化されたデータを保管すべくおかしな小部屋やポケットを作ったからです。
が、その”突起物”はコップの水を吸い取る働きがあり、自身でそれを探らないとどんどん大きくなります。
コップは自身の安定のために「もっと水を入れろ」と要求します。
ぎりぎりまで入れてもすぐ小部屋に吸い取られて(伝達物質が使われて)少なくなるため、最初から多めの水を要求するようになり、一度満たされたことを知ってしまったコップは、ギャップ故にさらに多くの水を要求するようになります。
不足と過剰を行ったり来たり、と言うわけです。

こうしてみると釈迦の主張もある種「喜びに満たされた状態を作る」には変わりがないのですが、それは余計なでこぼこを理知によって少なくした結果必然的に起きる安定を目指しているように思えます。

出家的人生のすすめをよみました。
大好きな作家のひとりですが、その内容をかいつまみつつ以下を書いてみます。

釈迦は「自分の苦しさを解消することだけを考えて生きる」コトをただひたすらに追求し、35歳で「わかった」となったわけです。
その後、満たされ落ち着いた彼は自分以外の人間にも「ついておいで」と方向性と方法論を公開するようになります。
彼は「どうやったらみんなこれを追求し続けられるのか」と考え、いくつかのアイデアを出します。
その最大のヒットが「サンガを作り律によって運営する」コトでした。

サンガは音写で「僧伽」と書き、これがなまって日本においてはお坊さん個人を「僧侶」というようになりますが、本来は「解脱を目指す人間の集まり」がそれになります。
そして内部の運営は釈迦を除くと完全に対等であり、修行のための教育を除けば上下関係はありません。
ただしその運営は「律」というルールで厳格に規定され、これを破ると場合によっては永久破門という厳しいものまでありました。

なにしろ「心を完全に平穏な状態に持って行く」コトが目的なので、この邪魔になるものは厳しく禁止する必要がありました。
性交や所有はその最たるもので、このため結婚や交際はおろか、自給自足も一切禁止されています。
食べるものは自身が所有を許されている鉢に信者さんが自発的に入れてくれたものだけ。
それ以外は木の実をもいでもいけません。
つまりは完全に周囲に依存しつつ、その活動を維持していると言うことになります。

先日ノーベル物理学賞を受賞された梶尾隆章先生が「私はただひたすら研究していただけ」とおっしゃっておられました。
個人的には大変素晴らしいと感じますし、先生もご謙遜がおありだったのだろうとも思います。
が、確かに現代のハードサイエンスは巨大な観測装置やスーパーコンピューター無しでは成り立たない領域に来ていると聞きます。
結果、研究と自身の経済活動は個人はおろか、大きな会社でさえまかない得ない状態で、国家のバックアップが絶対必要になっています。

釈迦の活動も(規模は違えど)同じ構造をもち、その内容は「自分の苦の根源は”生きるためにしたいこと以外のことをすること”が大きいのだから、理知を働かせる邪魔になるものは一切しませんので、皆さんよろしく」というものです。
古代インドではこのような人たちは結構尊敬の対象になっていて、いわゆるお布施ご喜捨なるものが当たり前のように行われていました。
そんな「他人依存で好きなことを続けられる環境」を手放さないためにも、つまり対外的にも自己を律する必要があったわけです。

釈迦もその弟子たちも”自分の幸せ”つまりは満たされた状態を希求していたのは間違いありません。
ただし私たちが考える方向、不満を強い刺激で糊塗してそれを繰り返してしまうという方向を「それは違う」と考えました。
もっと平穏で変化を少なくする方向を選んだわけです。

仏陀たる釈迦、そしてその教えである初期仏教のいう「幸せ」を私はそのように考えています。

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