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仏教概論12

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仏教概論12

もう仏教とは何も関係ないかも。
時々そんな指摘を受けますが(笑)、仏教の基本コンセプトのひとつである「生きる上での苦しさの原因を探り尽くす」からはそう離れていないと思うので、久しぶりに書いてみます。

仏教、とりわけ初期仏教あるいは原始仏教と呼ばれるカテゴリーの教えが、果たして”宗教”であるかは様々な見解があるようですが、宗教性を帯びたものに変容しうる考えであったことは間違いないでしょう。
そもそも「自分が苦しい」「この問題”だけ”をなんとかしたい」と家を出た釈迦族のシッダールタ。
当時、2500年前のインドと言えば昔日の勢いはみられ無いもの、バラモン教が深く浸透し生活や人生の一部となっていた時代です。
つまり宗教というのが今よりも(おそらく)はるかに身近で重要だった時代だったと推測されます。

人間の、さらに言うなら脳という臓器の最大の特性は「脳が感じたことだけがすべて」と言うことでしょう。
これはもう少し推し進めて考えると「自分をきちんと疑えない」という結論を導き出します。

自分の中で土台になる部分というのは、疑いたくても疑えないというのが脳に支配されている人間という生き物の特質です。
釈迦は「バラモン以外に神と交信できない」「輪廻は未来永劫続き、そこから脱出することは出来ない」と考えられていた当時の教育にどっぷりひたりながらも、敢然と反旗を翻し「そんなことはない、理性を使って考え尽くせ」と断言したわけですが、現代に置き換えると「人間の命が尊いなんて誰が決めたんだよ!」なんてとても受け入れられそうもない主張をNHKの全国版でぶち上げるようなものかも知れません。
まあそれくらい自分の中の矛盾をつぶしたくて仕方がなかったのでしょう。
自分を徹底的に疑って実用的な方法論としての解決法を制定した、おそらく歴史上最初の人間だったのだろうと思います。

そんなアナーキーなおじさんの哲学にすっかりやられた私が、仏教概論シリーズで好き勝手な解釈を書き連ねてきたわけです。
が、最近お読みになって下さった方から「幸せってそんな方法で得られるの?」という質問をいただきました。

さてここで大切な疑問が提示されました。

実は(私の解釈では)初期仏教の目的のなかには幸せを追求するという考えがないようなのです。
「(;゚Д゚)?」となった方もおられるかも知れないのですが、ここで復習をかねて釈迦という人がどのように考えていたのかをもう一度さらってみます。
神話的というか、脚色もあるようですが、概ね以下のようなことらしいです。

釈迦族のシッダールタは、生まれてすぐに母を亡くし、叔母である養母(多分後妻)に育てられました。
元々の明晰さに加え、ちょっとややこしい親子関係の中育った彼は、なんだかいろいろ考えてこんでしまうような少年時代を過ごします。
ただ20歳になるまでの彼は、広大な宮殿の中だけで暮らしていたので、父親の過保護さもありあまりややこしい現実を見ずに済んでいたようです。

20歳のある日、彼はお供と初めて宮殿の外に出ます。
4つの門から出て外界を初めて目の当たりにするわけですが、そのうち三つまでは「病・老・死」であり、釈迦は大変なショックを受けます。
今更?と言う感もありますが、ともかく当時の厳しい外界の状況をほとんど知らずに生きてきた、そして大変頭がよく感受性が強い彼にとっては、それこそ驚天動地の経験だったに違いありません。
「なんだ、どんなにあれこれしても結局はそこに行き着くの?」「人生ってなんだよ!」「うすうす感づいてはいたけど、自分が常々感じていている”生きづらさ”って、これが原因なんか?」と恐れおののいたそうです。
まあ極端かなとも思いますが、私たちの”悩み”のほぼすべての最終的な背景とも言える姿を見たわけですから、無理からぬコトだったのかも知れません。

で、最後の門を(がっくりしながら)出てみたわけですが、そこにホームレスのような格好のみすぼらしい男を発見します。
釈迦「あれは?」
お供「あれは修行僧です。俗世を捨てて修行に明け暮れる聖なる人たちです」
釈迦「!!」
なんだ、悩みをなんとか出来そうな生き方があるじゃん!
そう言ったかどうかはわかりませんが、ともあれこれがきっかけとなり、29歳の時にすべてを捨てて修行の旅に出ます。

で試行錯誤の末に35歳で「人生って基本苦しいものなんだな、その苦しさの原因となんとかする方法がやっと見つかった」と納得したらしいのです。

とまあおおざっぱですが、彼が菩提樹の下で覚るまでにこんなことがあったわけです。
覚った釈迦は「皆苦」、つまり基本いつも苦しむのが人生だよと言う考えを打ち出します。
そんな身もふたもない真理を実感した彼は「基本そういったものだからして、とりあえず”苦しい”というところがスタートだな。そもそも苦しいって言うのは”楽しい”の反対概念ではなく、何かを感じすぎたり反応しすぎたりすることなんだな。今までの考え方で何をしても何を感じても”安寧”の妨げになるんだから、まずは刺激に対して大げさに反応したり、それに関わりすぎないことが大事みたいだ。」と考えます。

ここがさすがというか凡百の人間とはひと味もふた味も違うのですが、要は彼は「幸福感で不安や苦痛を紛らわせるのは、少なくとも私の本意ではない。過度の幸福も過度の苦痛も感じない心が私の目指すところだ」と見切ったわけです。
車で言えばすごいパフォーマンスを出したり、添加剤をぶち込んで瞬間的な馬力を得たりといった方向ではなく、ただただ淡々と痛痒も引っかかりもなく”正しく”動くことを目指したようなものでしょうか。

そんな人生面白いの?と言う声が聞こえてきそうですが、それにはこう答えただろうと推測します。

答え:多分”面白く”はないだろうが、自分(シッダールタ)はそもそもあんまり楽しい/苦しいのギャップによって起きる興奮に心踊らされたくない。静謐な心持ちを得て静かな人生を送りたい。

では「幸せを感じるときの山と、その反動で起きる谷は必ずセットになっているのか?」と言う疑問が当然のように湧いてきます。

大脳生理的に考えるならば「それはセットだ」となるでしょう。
グルタミン酸の稿でも書きましたが、私たちの脳/神経細胞は高度な制御に特化している反面とても疲れやすく、同じ伝達物質による興奮が続くとあっという間に疲弊して、ひどいときには細胞死を招いてしまいます。
幸福感ややりがいを伴う興奮は、主にドーパミンやノルアドレナリンなどによって生じますが、これらはある意味「劇薬」であり、そうそう分泌させ続けることは出来ません。
つまり興奮は続かず、興奮後の「不応期」には幸せを感じることが出来ず、拮抗的な反応(がっくり感)に支配されることは容易に想像がつきます。

釈迦はともかくこういった「ジェットコースターのような心持ちが引き起こすごちゃごちゃした悩み」がいやで家を出たのですから、彼の目指すところが現代社会で当然のように推奨される”幸福(ドーパミン作動性システムの興奮)の追求”ではなかったことは明白です。

もちろん幸福の追求がだめ、などという話ではありません。
この稿で考えてみたいのは

幸福とはどのように定義されるべきものなのか。
そしてそれが巷間言われるほど人生において必要なことなのか。
いやそもそも人生というものがこちらが思いたがるほど執着しなければならないことなのか。

といったことなのです。
毒矢のたとえで諭される弟子のような感じがしないでもありませんが、仏教を深く考えて行くとそこは避けて通れないとも感じています。

現代社会が(事実上)推奨する「愛ある人生」「幸福の追求」が仏教の本義ではない(と言うかむしろ「?」という位置づけになっている)。
意外に思われるかも知れませんが、ここのところは仏教を理解する上ではよく考えてみる必要がありそうです。

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