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習慣

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日経サイエンス2015.05に「習慣を作る脳回路」という記事が載っていました。

習慣、つまりほとんど無意識に行われる思考行動について、これがどのようなメカニズムに支配されているのかを研究している記事です。

これによると依存症もこの習慣の一バリエーションであるとあります。

となれば当然報酬系、つまり中脳腹側被蓋野が関与するはずですが、54Pの囲み記事とその図は

1.大脳基底核と前頭前皮質による行動の吟味
2.感覚前頭皮質と線条体のループ強化による習慣の形成
3.下辺縁皮質による刷り込みと制御

上記すべてに中脳腹側被蓋野によるドーパミン分泌が関連していることを示していました。
ただしまだ全容はわかっていないようで、現在研究中とのこと。

と同時にいったん根付いてしまった習慣は、他の習慣に取って代わられることはあっても、脳内から完全に削除することはかなわず、ストレスなどから古い“習慣”が顔を出すともあります。
いったん依存症、特に化学物質によるもの(ドラッグやアルコールがよい例)がその原因物質を完全にしかも一生涯断たないと、簡単に逆戻りしてしまうことからも、この節には説得力があるといえます。

私はこの記事を読んで思ったのは次のようなことでした。

「私たちは基本的に“死にたくないから生きている”ワケで、しかしその明確な理由は不明である」
「死にたくないから食べて眠り、これを安定的に確保すべく努力を営々と続けてきた」
「その過程で他人と協力し、それをシステムとして安定させるためにより巨大な集団(村や国と言った大きな枠組み)を運営できるよう、様々な規則を作ってきた」

「この方向性を推進するに当たって、他の動物よりも飛び抜けて優秀な“脳”を武器としてきた」
「同時にこの脳は容赦の無い支配者となって我々を組み敷いている」
「その影響力はほぼ絶対で、事実上逆らうことができない」
「その運営はきわめて複雑な回路形成を行うことによって効率が上がるようになっている」

「回路形成は”それをすると何らかの利益を受け取る---必ずしもわかりやすいものはないかも知れないがそれをすることによって脳は何らかの報酬を得うる---つまりドーパミンをはじめとする伝達物質のやりとりを促進する」
「しかしいつまでもそれに関わりすぎていると、他のイレギュラーな制御がおぼつかなくなり、場合によっては生命の危機にさらされる確率が格段に上がる」
「できるだけ脳のためには行動や思考とリンクした報酬を受け取りたいが、それは可能な限り意識に上らない、つまり脳のリソースを消費しないことが望ましい」

ちなみに意識というのは、脳の興奮のあとに生じるものらしく、いわば脳の活動状態が一定以上続くことによって発生する「脳のモニター画面」のようなものらしいのです。
なので“意識される事柄”は常に脳の一部を使い、そこにリソースが集中しやすくなるため、全体の反応が制限されるとのこと。
つまり「無意識にできる、脳の安定をもたらす反応はきわめて歓迎できる」というのが基本的な生理の一つだそうです。

続き。
「これらの有益な行動思考を無意識レベルに落とし込むためには、可能な限りパッケージ化したデータとして貯蔵しておくことが必要」
「そのためには神経細胞同士のつながり(シナプス)を強化、サーキット化しておき、必要なときに制御する信号だけを立ち上がるようにしておくのがベスト」
「ただしこれが定着(脳ひいては生体全体に有利であると条件付ける)するためには報酬系の力を借りる必要もある」

大脳基底核の機能は大脳皮質で起きた広範な運動命令を一つに纏め、運動捕捉野に集中させる漏斗効果であると書いたことがあります。
同時にその行動制御はどちらかというと予測行動がメインであり、突発的あるいは初めての動きを積極的に支援するものではないと言うことでした。

このことは敷衍して考えると、ある種の行動学習あるいはメモリー機能を担っていると言うことになります。

その行動は生体にとって有利、正確には学習を通じてドーパミン分泌を促すに値するかどうかを評価し、それを繰り返すことで生存の確率を上げうるものを「考えずに行えるようにする」ことが大脳基底核に課せられた仕事の一つ、といえそうです。

さてではこの機能を適切に使用するための最も有効な方向性、あるいは梃子になり得るのはどんなことなのでしょうか。

上の方に「意識は後追いの、結果を映すモニター画面」なることを書き込みました。
同時にこの「意識」は蓄積することで脳の制御に影響を与えるというのも、現状では否定することのできない“事実”と考えて差し支えありません。

自我というのがこういった意識の下にできた、それこそ習慣化された思考や行動が三次元的かつ複雑に積層された隙間にできた隘路を流れる川のようなものだと私は考えます。
その川の流れ同士のリンクを阻害するものを一つ一つ取り除き、より大きな(加えてできれば単純な)流れにすることによって、脳という支配者はより安定した機能を実現できるはずです。

これがより多くの領域で実現できれば、習慣つまり脳を安定させるためのパッケージ化され自動化された行動を起こすにあたり、いちいちしなければならない思考から解放され、余分なしかも一過性の快楽報酬を最小限に抑えられ、その認識のための反応は高効率化されてゆくというのが、最も蓋然性の高い説明と言うことになります。

しつこいようですが、だからといって釈迦のような人生が最上あるいは正しいと申し上げているわけではありません。
一つのひな形としてこれは当面のあいだ存続する方向性だと考えますが、もしかすると近い将来私たちは一切の葛藤から解放され、その一生を現代では信じられないくらいのレベルで穏やかに過ごす日が来るかもしません。

当然超えるべきハードは高くそして数多く存在します。
もしかすると原理的にそれらが超えられないものだと証明されるのかも知れません。

ただ我々を突き動かすそのメカニズムが解明されるかも知れないと考えると、私は年甲斐もなくどきどきしてしまいます。
この分野での研究がより進められることを強く期待しています。

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