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仏教概論24

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仏教概論24

前稿仏教概論23において「仏陀の教えと科学とは似たような考え方をする」という主旨のお話を書いたところ、「んな馬鹿な話があるか!宗教と科学とではベクトルが真逆だろうが!」といった反論(罵倒?)をいただきました。

仏教概論あたりに書いた記憶はありますが、「仏」陀の「教」え、つまり仏陀釈尊が唱えた主張は現在では原始仏教あるいは初期仏教と呼ばれ、現在日本で良く目にする仏教=大乗仏教とはかなり異なるものと認識されています。
現在の大乗仏教を「宗教」とするなら、釈迦の興した仏教は宗教というよりは哲学/修身法であり、しかも超実践的かつ合理的な考えを推し進めた結果生じたものと言うことが出来ます。
ただ宗教要素が皆無だったわけでもなく、「正しい判断をするために一端判断を止めさせる」方向性はもっています。

宗教が宗教たるゆえんの一つは上に書いた「判断の停止」を起させる主張、方法にあることは間違いありません。
一般的に言えば「はじめに神と神の言葉ありき」がそれに当たります。
これを中心教義といい、これを動かすことはその集団内では明確に御法度となります。

「私は神の存在を信じていないから関係ない」
そんなことを考えているあなた、実は結構関係しているのです。
私たちは基本的に「思い込み」を必ずもっています。
これをもう少し別の言葉で言うなら「どこかで情報を切り捨てて、事象を適当な形で確定させ、自分にとって扱いやすい形で納得する」となります。

一つ例を挙げてみます。
私たち現代日本に生きる日本人は、日常歩道や横断歩道を歩くことが出来る、あるいは出来る人が多いわけです。
車の往来が多いところでも多少は気をつけるものの、赤信号では車が止まってくれて歩道に車が乗り上げる確率はほとんどないと思いながら大抵の人は行き来しているでしょう。
しかしこれは冷静に考えるならば「車という猛獣以上に危険な機械がすごいスピードで往来しているところを結構平気で歩いている」という、ある意味異常な光景とも言えます。
つまり「そうそう簡単に事故になんか遭わない“はず”だ」という思い込みで動いているわけです。
確かに日本人は基本的にルールを遵守する人が多いですし、マナーも比較的高いレベルで保たれていると思います。
しかしだからといって事故はあり得ない、と言いきる人がいたら「あんたおかしいよ」と言わずにはいられません。

これは極端かつ一面的な話かも知れませんが、内部思考においても当たり前のように「情報の切り捨て/状況の一方的な確定」は行われています。

さて翻って「科学」とはどのようなものか、今一度考えてみましょう。
仏教概論23で”神の視点を剥ぎ取る”ように進化してゆく体系であると書きました。
あらゆる反証可能性を試され、微分され、可能な限りあら探しをされ、それでも否定反論が出来ないものだけがその時代に生き残ってゆきます。
そこまでしてもあくまで事象を近似的に記述したものでしかなく、古典物理が相対論により詳細な記述を託すしかなかったように、そして量子論が理解不能ながらも“正しい”事象の記述をより高い確度で行えたように、科学の世界においては次々と正しさ確かさの基準は書き換えられる運命にあります。
所謂ハードサイエンスと呼ばれる厳しい見方を旨とする分野においては、少しでも疑いが残るならばそれらを徹底的に潰すように実験、考察が重ねられ、必要な情報の切り捨てや曖昧なままでの状況の確定はあってはいけないものとされています。
つまり“思い込み”はもっとも警戒すべき敵と見なされるのが科学であるとも言えます。

今、私は初期仏教という哲学がもっとも合理的で美しい“理論”であると感じています。
同時に、そのように考え感じている自分に「それは今のおまえの状態、状況がそう思わせているだけで、実はもっと揺るぎない世界観に気がついているんじゃねーの?」と、頭の中で何かがつぶやいているようにも思えます。
これは今これ以上情報も知識も経験もないためにそのように考えるのが限界であるという可能性と、「美しい理論だ」と感じている自分に酔っている可能性の両方が考えられます。
いってみれば「どうも求めている到達点にはほど遠いような気がする」と感じているようなのです。
うっすらと見えている理想、「思考を必要としない自分」は、蜃気楼のように実はすごく遠方にあって、ただ目の前にぼんやりと揺らいでいるだけかも知れません。
そんな中でも大切なのは「今自分に何が必要か」です。
それは後から見れば「なんであんなコトをしていたのか」と思えそうなことでも、今自分が欲していることを手に入れるために欠かせないものであれば、試してみようとするのが“自然”な方向性というものだろうと考えます。
同時にそれを達成するためには、思い込んだ方が楽という姿勢を習慣づけないことも大切です。
こうであるはずだこうであってほしい。
それは「自分の都合の良いようにものごとをとらえて解釈したい」と言っているのと同義です。
それをすべて排除するのは事実上不可能ですが、長期的には可能な限り少なくすることが自己救済という“誰もが普遍的に願う方向”に向かうものと、今のところわたしは考えています。

ただただ事象(これは人間を含むすべての存在もその中に含まれますが)を歪み無しにとらえ、内部処理との乖離を減らし、認識の齟齬による矛盾/逡巡をなくしたい。
科学と仏教の共通点はそこにあると私は思っています。
Sさん、これでご納得いただけましたか?

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