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仏教概論23

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仏教概論23

仏教って一体何なの?
これを一言で答えられるほど仏教に精通しているわけではないのですが、たまたまその人が理系の人でしたので、「科学と同じような考え方をするね」と答えました。

これはあくまで私個人の考えですし、もっと言うと私が主に勉強してみた「原始仏教」限定のことですが、仏陀たる釈迦の教え(原始仏教)と科学はその基礎的なところで共通点があると思っています。
科学者でもなく科学を修めたという程の勉強ももちろんしておりませんが、科学を外側から眺めたとき、目にとまる特徴は「モノやコトをどんどん分解して要素に還元しようとする」ことでしょうか。
あなたが頭痛もちだとしましょう。
たまたまその辺にある野草を食べたところ、たちどころに痛みが治まり、それ以降ぶり返さなかったとします。
「ああよかった」とか「これを他の人にも勧めよう」とか、普通はそんなふうに考えることが多いでしょう。
でもそれが科学者の目にとまれば、その草の成分をとことん抽出、分類したうえで、あなたの頭痛の原因を押さえ(病因の分類)、それに対して何が普遍的に作用し、症状の解消を招きうるのかを徹底的に追求するはずです。
そこには(多分)一切の妥協はなく、私たちがすぐ口にしそうな「エーそんな汚い草を食べるのはいやだ」などと言うごく一般的な意見も耳に入らず、昔の人の経験談も全く関係がないことでしょう。
人間というフィルターを通さない、あるがままの状態を知りたいという欲求に突き動かされて(あるいはそれがもたらす実利を追い求めて)モノやコトの真相を拾い上げようとするはずです。

さてこの「真の姿を探す」課程において、必ず生じる葛藤あるいは障壁というのが存在します。
それは神の視点からの離脱というプロセスです。
古くはガリレオが唱えた地動説が有名ですし、最近ではアインシュタインの相対性理論、そして彼が生涯否定し続けた量子論などが神の視点を放棄するきっかけになったと言えるでしょう。

中世ヨーロッパでは神学が文字通り神の視点を支えてきたわけですが、それは基本的に当時の人間、つまりあまり知識がない状態に置ける感覚あるいは認識(=世界観)に無理なくフィットしていました。
今この地球が新幹線の数倍のスピードで自転し、秒速30kmで太陽の周りを回っていると言われたところで、私たちの認識では「はあ」と間の抜けた答えを返すくらいしか出来ません。
あなたと私のいる場所では時間の流れは違っていて、作用している重力も違うから、同じ時間を共有しているというのは錯覚だよ。
そう諭されすぐに「!」とひらめく人があなたの周りにうじゃうじゃいたら、きっとそこは少し変わったところなのかも知れません。
ましてや「今あなたが認識している事象は、可能性の重ね合わせでしかなく、何一つ完全に確定させるの原理的に無理」などと言われた日には、大抵の人間は「何言ってんの?」と考えるのが当たり前でしょう。

科学によってモノやコトの真相を掘り下げてゆくと、必然的に私たちの“自然な”感覚やそれによって生じる認識はどんどん裏切られて行き、「そんな馬鹿な!」という世界が次々と出現してゆくことになります。
ふわふわと頭の中を舞っていたファンタジーを反論の余地なく剥ぎ取り、こうあってほしいといった願望を容赦なく否定して“現実”を突きつける。
科学はそのようにして世界を描写し、発展してきました。

さて一方の仏教ですが、こちらも基本は「あなたの頭の中にある都合の良い思い込みがあなたを最終的には苦しめているんだから、まずはそれを外すための訓練をしなくちゃね。そのためにはとりあえず私(釈迦)の言うことを疑いなく実行してほしいんだけど、一端理解体感したらそういった教えも捨てるべきだし、どんどん疑って場合によっては否定したりしてくれないとね。それがあなたの頭をきちんと使うために必要なことなんだから」といったことをその柱にしています。
とはいえ、科学は物質や現象と言った大方の人たちの目の前で起きたり、触ったり出来るコトやモノを相手に、それを分解/分析して普遍性を提示するのに対して、仏陀の時代の「心」の修正は、ただひたすら頭の中で完結していたので、それを揺るぎない形で提示するのはかなり大変だったと想像できます。

仏教が量子論と非常に似通っていて科学的である、と言うお話ではありませんし、科学を先取りしていた仏教はすごいなどという戯言でもありません。
原始仏教も科学も今目の前にある現象事象を極限まで分解し、しかもそれはどのようなことにも躊躇せずに行うという基本コンセプトが共通している、と言うお話なのです。
しかもそれは今まで信じていたこと、正しいと感じていたことに張り付く“神話=神の視点”を剥ぎ取り、疑って疑って疑い尽くして、それでも否定できないものだけを認めると言う点で同じ方向性を持つ思考を「是」としているのです(原始仏教には神も仏も基本的には出てきません)。
同時にこれは脳という臓器の能力の限界故に生じる、必要なデータや情報だけを取り込んで真実としがちな私たちに突きつけられた、ある種の知的な挑戦でもあります。

仏教や科学が正しいかどうか。
あるいは抹香臭い説教や行事には正直興味がありません。

今この瞬間その考え方が自分にとって必要かどうか。
私が注目するのはこちらの方で、原始仏教の持つ「いい加減に目を覚ませ」というメッセージには非常に興味をそそられます。

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