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トラウマ2

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トラウマ2

心的外傷。
ウィキペディアでは次にように説明しています。
ただ、アドラー心理学においてはこれを「今の自分に対するいいわけ理由付け」と見なしています。
昨今、とても有名になったこの考え方。
本当のところ、私たちはどのように考えるべきなのでしょう?

アドラー心理学をはじめ、心理学全般にたいして「読みかじり程度の知識しかない」私の戯言だと思って以下をお読み下さい。

まず特定の記憶が人間を苦しめるという現象。
これは間違いなくある、と断言できます。

そもそも記憶という「記録を修飾改ざんした情報群」は扁桃体や側坐核など、(主に)A10神経と呼ばれる中脳腹側被蓋野が投射する先の神経核によって様々な評価をつけられて格納保持されています。
またその記憶は必要に応じて、時として必要がなくてもデータベースから引っ張り出され、感情的な側面における評価などを付与され、肥大あるいは改組されて格納され、新たな記憶のネットワークを形成します。

当然これらのプロセスは(一般的に言う)ネガティブなものだけではなく、うれしい楽しいといった感情を伴うような反応にも適用されます。
そのような記憶を積み重ね、「死から遠ざかりつつ快感を得られるような反応経路」が保護され、徐々に固定的になり、意識という注意集中現象がもっとも起こりやすい座を占める。
自我とはそのように形成されてゆきます。

この観点からトラウマを眺めると、その最も保護し壊されたくない反応経路に横やりを入れて不安定する反応群、と言うことが言えるでしょう。
それは大抵が青班核に始まる警戒警報を発する反応群を引き出すものと推測されています。

さてアドラー心理学を(少しですが)読んでみた限り、「心的外傷なんてえのは目的を正当化するために内部で作り出しているだけだよ!」とアドラー先生はおっしゃっているようです。
確かに、学校へ行きたくないという心理状態は、訳のわからない腹痛を作り出すこともあるでしょう。
仕事に就きたくない“いいわけ”を「親がそう育てたから仕方ない」とすることもめずらしくないかも知れません。

私の浅い理解では上記のように自分を正当化する理由を探し、かつそれを常々“アップデート”し、それにしがみつくことこそが、アドラー先生の言う「トラウマの正体」のように読めました。

ところで私は上の方で

一番自分らしいと思えることは実は単に「死にづらくて安心や快楽を得やすい」ものだったりする

といったようなことを書いています。

アドラー心理学の言うところの「正当化のための内部操作」というのも、実のところは「死にづらくて(一見苦痛に見えるが)快楽を得るための本人なりの方法論」であると私は考えています。
そうです、私の言う「快楽」とは、気持ちのよい方向のものだけではなく、肉体的な苦痛を含む「脳(心)への刺激そのもの」を意味しています。
つまりいいわけも達成感を得るための努力も、ときとしては肉体的な苦痛さえもその人の脳が自らを維持するために必要な刺激であり、場合によってはいいわけそのものが目的にもなりうるワケです。
挙げ句の果てにそのいいわけ自体が肥大し、心の大部分を占めるまでに成長してしまい、それを維持することにエネルギーを使い果たしてしまうことすらあり、刺激そのものから離れられないのが私たちのようであることをうかがわせます。

そういう点では私たち人間は「苦(快楽を含む)の虜」であり、脳という臓器に振り回され続ける性質を持っていると言えるでしょう。
かゆみをごまかすために掻きむしっては、新たな創傷を増加させ、さらにそれを糊塗するために周辺領域を拡大させつつ掻くことを続けてしまうことに似ています。

後ろ向きに原因を探しがちな私たちは、今の心理状態を作る理由がないと不安になります。
これは「理解」という現象が記憶のネットワーク化によって生じるものだからです。
自分の内部に格納してある「記憶」が無理なくたくさん結びつくほど、総体的なリソースは節約され、内部整合性が高まるからです。
ひらたく言えば「やっぱりこれで間違っていなかったんだ!俺の自我は正しい!=快感である」となるために理解という現象を求める、と言うことです。
これこそが自我という反応経路の本質ですが、だからこそそれを脅かすもの、しかもそれが論理的な妥当性を持つものほど排除攻撃したくなるのでしょう。
この稿で言えば「トラウマ理論が正しくなければ今までの自分の行為は正当化できない!」という、脳内部での快楽経路=自我の崩壊につながる“正論”は認めることが出来ない人がいるということになります。

しかし、あまりに強い警戒警報に修飾された記憶が刺激されるとき、その警戒警報が他の情報処理を圧倒し、身体的活動を一時ストップさせることがあると言うロジックは、大脳生理あるいは大脳科学的にも十分納得がゆくものであると言えます。
そこまでゆかなくても、例えば特定の臭いによっていやな記憶が呼び起こされ、しかもそれが明確に意識できないレベルであれば「あの臭いはいやだ」という気持ちを呼び起こすでしょう。

結論: 何でもかんでもトラウマのせいにすると、アドラー先生に「前向け!」と怒られそうだが、しかし大脳生理を混乱させる反応群というものを全否定することは出来ない。
トラウマと言う概念を現時点では否定しきれない。

皆さんはどうお考えになりますか?

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