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自由を考える

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自由を考える

完全教祖マニュアルと言う本を買いました。

まあ一言で言うと「笑った\(^O^)/」という感じでしょうか。
もちろん「ばかばかしい」ではなく、「よくここまで真理を(しかも軽妙な語り口で)追究できたな」という意味で。
似たような物語に「教祖誕生」という映画があります。
是非一度ご覧になってください。

これらをみて読んで思ったのは「何でもありの状態というのは逆に大変だな」ということです。

宗教、特に新興宗教という言葉は日本では「うさんくさい」の別名くらいに思われていますが、事実それで本人が幸せを感じているのなら、周囲に迷惑をかけていない限りあれこれいう筋合いのものではないのでしょう。
もちろん非合法あるいは非人道的なアプローチは非難されるべきです。
しかし人間の特性としてある程度の規範を提示するのは、特に日本人の特性を考えるとき、むしろ必須の方向付けのような気がします。

著者曰く「宗教は人(信者)にハッピーになってもらう商売」である、と。
教祖たるもの悟りを開きたいとかあーだこーだ考える前に信者を幸せにせよ、と言うことらしいです。
極めてまっとうでなんの迷いもない、直球ど真ん中の正論です。

私たちの仕事も突き詰めれば「(幸せになるために)健康になってもらう」ためのものであり、こちらのアプローチがどんなものであれクライアントにはなんの関係もないわけです。
そこを勘違いしてテクニックのみに執心(方法論自慢)したり、自前の論理(自分の考える真理)を押しつけるのは傲慢以外の何者でない、と言うことに改めて気がつきました。
そして治癒と言う現象をもっと掘り下げて考えて見る必要があることを実感しました。

ちなみに私は他人が提示した特定の考え方に帰順してはいませんが、それでも内部に「こうありたい」という方向性は持っています。
それさえも常に自分で確認していないと、日常のいろいろなことに紛れてしまいそうになり、あれこれ本を読んだりしてぶれないようにしている始末です。

これもある種の「自己催眠/洗脳」ですが、それくらい私たちは「何でもあり!」の状況に投げ出されると迷いやすくなります。
いきなり「治良ってこういう感じ」と概略だけ話して「やってみ」といったところでたぶん大抵の人はできないはずです。
そこにいたる道筋をある程度話したり経験してもらって初めて「ああそうか」となるわけです。

私は以前「細かいことは良いから原理だけ教えてくれ。あとは俺が“自由に”工夫するからさ」なんて考えていました。
今も「早く楽に効果を上げたい」という、まじめな人から言わせると「タワケ!」と怒られそうな考えを持っているのですが、その内容に少々変化が現れてきています。

特に私のようにあまり頭の回らないタイプは、やっぱり泥臭く一つ一つ身にしみこませてゆくのが最も近道である、と最近は思っています。

結論:私が考えていた「自由」は単に「勝手に解釈」し、楽をしていたいというだけの話であり、結果的には実は極めて遠回りな思考である、と遅ればせながら気がついたわけです。

「馬鹿な考え休むに似たり」

まさにその通り、と言うわけでした。

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