脳という臓器2017
脳という臓器2017
私は残念ながら宗教家としての素養も素質もありません。
なので“心に染み入るお話”が出来るわけではありませんが、とりあえず食べる眠るを確保しているのに生きる上での困難を感じる人が多くなっているのかを、治良師としての視点から考えてみました。
たまにあることならばいずれ解消されるから我慢してやり過ごす。
人間も長く生きていると経験からそう思うことが出来るようになります。
若ければ若いで体力にものを言わせて乗り越えることも可能でしょう。
誰でもある「気分の落ち込み」は、その多くが脳の働きが低下している、少なくとも報酬系がもたらすわくわく感(システムの適度な興奮)が低下しているなどの状況がその背景にあると考えられています。
一過性にしろ慢性にしろいつものように“病理がない”コトを前提としますが、
・血管内の慢性的な(微弱ないしは低レベルの)炎症反応による脳内モジュールの疲弊
・上記によって生じる脳マトリクス全域の応答性低下
・特定の生得的な問題
・その他
などにより、生物として必要なときに必要な興奮が得られない(捕食時に適度な緊張をもたらすなど)ことが大きく関わっていると個人的には考えています。
さて少し話はずれますが、私たちの脳は警報系VS報酬系ではどちらが優位に立つように出来ているのでしょうか。
人間として考えるならば「明るく前向きに生きた方が社会的にもより有利になるはず」なので、報酬系の方が強く働いても良さそうな気がします。
しかし私たちは社会的な動物、つまり周囲と融和し協力してシステムを築く生き物である以前に、相手を圧倒してでも自分だけは死にたくないと考えることがどうやら至上命題らしく、他の動物との一線があやふやであることが本性のように思えます。
これは言い換えるならば楽しみよりも死を避けること反応の方が優位で、そのためのシステムの方が起ち上がりやすく、一度起ち上がると多の反応群を圧倒する可能性が高いと言うことになります。
これはおそらくここをお読みの方たちにも覚えがあると思うのですが、身の危険が迫るとありとあらゆる思考が停止し、ただそれを乗り切るだけの反応に身を任せるほかなくなるようになります。
つまり警報系が及ぼす影響というのはどのシステム、モジュールの働きよりも優先される傾向があるというとのなります。
さらに結果として一過性とは言え猛烈な負荷を脳や臓器、組織にかけますから、これらから解放されると今度は一転してあちこちの応答性低下や免疫抑制状態による感染症/疾病罹患率が高くなります。
脳内で言えば大量のモノアミン系(主にアドレナリン、ノルアドレナリン)による大興奮→疲弊/不応期が訪れます。
当然血管内の反応もプロスタグランジンの生成を抑えるように傾きますが、始終こういった環境が惹起されると収まりはどんどん悪くなります。
もともと起ち上がりやすいシステムなので、うまく拮抗する反応が安定して起ち上がるようセットされていなければ、あるいは他のシステムと連動して適宜メリハリのつくように仕向けられなければ、警報系反応優位はある意味自然の成り行きとなります。
結果脳内では関連細胞群の疲弊や応答鈍化が進み、元気なのは生命維持に必須である警報系周辺と言うことになっていきます。
しかしこの状況が続くと警報系までが鈍麻になり、捕食を含む生命維持に関わる行動も安定しづらくなります。
放っておけば他罰的、攻撃的な末に訪れる気分の落ち込みは必然であるというのが、生理的な傾向から見て取れるわけです。
ただ本来ドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンと代謝が進むので、攻撃が始まる前にドーパミン作動性システムである報酬系の反応が上がっても不思議ではないと思うのですが、このあたりは私の勉強不足のせいか納得できる説明を自分で見つけることはまだ出来ていません。
楽しみという”ご褒美”よりも、死を遠ざける反応が優先して起ち上がるため、なすがままにしておけば早晩ご褒美反応は休みがちになり、それどころか生存に欠かせない反応までも浸食される。
それ故にすべきコトと出来ることの間を埋める工夫によって、乗り越え反応(達成感)を感じ、それを積極的に刺激するような日常を作り上げる必要が我々にはある。
大脳ってなんてありがたくて面倒な臓器なのだろう。
つくづくそう思うこの頃です。