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祈りの効用

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祈りの効用

さて新年早々(でもありませんが)何を唐突な話題を持ち出すのか、と思われた方もおられるかもしれません。

きわめて不信心で神社に行って柏手を打ってはいても心の中では「こんにちは」くらいしか唱えない私ですが、最近この「祈る」という行為について少し考えるところがありました。

もちろん信心に目覚めたわけでも、なれないアルコールに頭が冒されたわけでもありません。

それは年末年始、友人からのメールがそのきっかけでした。

治良という、当の本人さえ今ひとつ説明が明確にできない行為をどのように体系づけるのかなどと、温泉につかりながら「体主体という思考からから一度頭を切り離してみては」なる主旨のメールを思い出しつつぼんやり考えていた時、ある事実に気がつきました。

それは私があれこれ言いながらも結局は「体主体のシステムの思考から一歩も出ていない」ということでした。
図々しい私はショックを受けることもなく「そうなんだよなあ」などと人ごとのように考え、「やっぱり世間が狭いよ、俺は」くらいに思っていました。

私は何のかんのといってもやはりあんまマッサージ指圧師で、施術行為における発想の原型はすべてそのあたりの教育から出発しています。
実用上それでもOkなのですが、問題は私がそういった方向を指向していないということでしょうか。

もっと書くなら「なぜ体の調整(と称する操作)を行って変化が起きるのか」を心底納得していないのではなかろうかと考えます。
こればかりはいくら勉強をしてみてもきちんとした答えが出ることはなく、むしろ勉強が進めば進むほど自分の信じてきた説明への不信感が増すばかりです。

とくに遠隔治良に代表されるような「人体への物理的接触が一切無い状態での反応」を観察するにつけ、私たちの抱える問題とその解決方法というのは、じつは観察可能な形で起きる反応とは違うエリアでの出来事なのではないかと疑っていました。

もちろん疑うばかりでなかなか答えは出なかったのはいうまでもありませんが。

そんなときに友人からメールをもらい、珍しく素直に従ってみたのは何か予感するものがあったのかもしれません。

「でも体主体ではないシステムっていったいどんなものだ?」

当たり前のように面倒くさい思考が私の小さい脳みそを圧迫しました。

従来、というかついこの前まで私は「なんだかよくわからない領域、意識現象は体という物理的存在を補完するもの」くらいに考えていました。

主役はあくまで体という存在で、意識現象もその上部ディレクトリと思われる“何か”も、体のための存在しているものと仮定して論を進めてきました。

それはそれで全くの間違いとは言えないあるいは実用性が十分あるのは治良の結果を見るとわかりますが、説明を進めそしてそれ以上に治良を進めようとするとき、この考えが足かせになっていることは明白だったのです。

何しろ体に触らないことで効果を発揮するパターンも少なからずあったからです。
いやむしろそういったパターン、ケースのほうが年々多くなってきており、自分の論理と現実の整合性がどんどんとりづらくなってきていました。

そうはわかっていても長年使ってきた考え方を捨てるというのは意外と難しく、そんな不整合があることさえ気がつかないのは私の頭が良くないだけが原因というわけでもなさそうです。

そんなこんなで頭が限界近くになっていたとき「あ、もしかして人体というシステムが“従”で、その従を成立させているのは今までみそっかす扱いだった「なんだかよくわからない領域」であり、中間地点に「意識現象」なるものがあるのかな」と突然考えつきました。

冷静に考えるとどこかの神話などに出てくる発想だったりしますが、よく言われていることが自分の中で押し広げてきた思考にはまり込んだのだろうと思います。

もちろんこの考えが浮かんだからといって神の存在に目覚めたなどということはなく相も変わらず不信心だったりしますが、遠隔治良のような「ノータッチ」がどのように影響を及ぼしうるのか想像を巡らせやすくなりました。

今までは

体---思考---よくわからない領域

という(便宜上の)階層構造でシステムをイメージしていたのですが、今年に入ってから

よくわからない領域---調整弁あるいはデータ中継地点としての意識現象/思考----体というある種のバッファー---領域>仕事への変換---体/意識を通して領域への還元

という今までとは逆の階層構造を(これも便宜上)想定して考えてみることにしました。

今回私は人体を「バッファー」の一種と見なしてみました。
バッファー(緩衝器)なので、よくわからない領域(以後領域と呼びます)が何かをなすための通路あるいは触媒のような位置づけと言えるでしょうか。

元々自然、というかこの世にあるものは「落ち着きたがる」のがその基本性質と言っても過言ではありません。
安定を指向するとも言えますし、低エネルギー状態になりたがるともいえます。

この基本性質を踏まえて思考、想像してみるに、私が領域と呼ぶ説明のつかない存在は、どうやらそのつかみ所のなさ故に何か「仕事」として自らを顕現させたいという方向性を持っているような気がしてなりません。

もちろん「仕事」とはエネルギーを使いながら行われる物理的現象を指しますが、これを行えるようにすることで領域そのものがより安定してくる、といえばいいのかもしれません。

そのために実体としての私たちが“できあがり”、その中継地点としての意識現象が発生した---

なんだか宇宙論における「人間原理」みたいな話になってきましたが、システム全体をこうとらえることで説明がすっきりすること、そして理解が深まり治良が安定することがわかりました。

で、治良において私がよく書く「何もしない」が何故もっとも良い結果を出すのかがもう一つ説明できなかったのですが、この考えをベースに次のように(自分自身へ)説明してみました。

「体の真の要求があり、これを実現するためには“領域”との正確な連動が不可欠である。
この”真の要求”に沿った領域の反応を「環流」させるためには、体の反応をイメージする必要が(経験的な観点から)ある(はずだと言える)。
もっともそれは無意識下で絶えず起きている現象でもあるが、それらを感情の揺れや過去を含めた総合的なデータとして喚起できるのは「意識現象」であり、これが無いと正確なオンデマンド反応を得ることは難しい(と思われる)。
ただこの意識現象なるものはバイアスがかかりすぎていたりすると、正確なデータを生成することが難しくなるので、無意識というバイアスの少ないコードと一致させる必要が多分にある。
そうでなければ体の要求を正確な形で「領域」に流すことができなくなり、返ってくる反応も必ずしも必要なものではなくなる可能性が高い。
そのための方法論として「無念無想」が理想であるが、これが簡単にできるくらいなら最初から苦労はない。
次善の策として”意識現象内のバイアスに振り回されないため、意識現象そのものを俯瞰する(できているかどうかは別として)ようにする。
こうしてバイアスの少ないコードは無事中継地点を改変なしあるいは最小限の状態で通過し、領域に到達する。」

おそらく治良の「何もしない」はこのような意味を持っているのではないかと考えました。

が、これってどこかで聞いたことがあるような無いような・・・、と悩んでいました。

「ああ、これって『祈る』って行為か」
自分勝手な願望をぶつけることが祈りではもちろんありません。

やはりぼんやり考えていたときに浮かんだアイデアでしたが、自分の(真の)願い=体の要求を“領域”に到達させるための手段という点で、おそらく自分が今していることは「祈り」と同義であろうと考えています。

まあこのあたりの検証というか考証はもう少し続きますが、新しい年のスタートとしてはなかなか興味深いものだなとうれしく思っています。

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