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無知の知

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無知の知

こんな記事を読みました。

今までは「心の機能」とされてきた曖昧な領域が、脳科学の急速な発達によって脳の機能として解明され続けています。

話はいきなり飛びますが「私たちは自主的に思うのか、はたまた思っていると勘違いしているのか」という問題があります。
思う、つまり意識という主体があり、それが何かを判断するために脳を使って「思う」のか。
生き物として必要な判断を繰り返す脳が作り出した「頻繁に使うサーキット」を自我として認識した(したがる)結果、それを主体と思い込んでいるのか。

上記記事にある「メタ認知」とは、その内部サーキットを別の視点で眺めた結果生じる認知現象です。
そして私としてはこの記事のキモは「記憶とそれをメタ視点で認知するのは別系統」という部分です。

脳はいいかげんにできていると言う本の中で

「さらに問題なのは、脳についての本の大部分が、古くからある根本的な誤解に基づいて書かれていることだ」
中略
「こうした本やテレビ番組では。脳を巧みに設計された機械、効率的に働く素晴らしい機械として描いている」
中略
「まったくのナンセンスだ。脳の設計はどう見ても洗練されてなどいない。寄せ集め、間に合わせの産物に過ぎない。にもかかわらず、非常に高度な機能を多く持ち得ているというのが驚異なのである」
P11より抜粋

と作者は書いています。

現在最新の研究は、

・記憶は原則再現可能な脳内(化学)現象である
・これらに修飾された「感情」もまた同様であり、外部からの操作によってそれらを喚起することは可能である
・意識もまた脳内現象の一つであり、主体というよりは後追い(モニター/記憶強化)反応という側面が強い

など、意識が脳の機能の一部(あるいは結果)として生じたものであるという説を支持する知見を蓄積しています。

メタ認知機能は「記憶を正確に洗い出して、より的確な判断を下すため」に生じた(進化した)機能であると考えられます。
そもそも記憶するという機能そのものが反射以上の反応によってより生存確率を高めるためのものなので、その上位チェックシステムの一つとして「後付け」された構造に生じたとする推測は、全くの的外れというわけではないと思われます。

意識は主体ではなく、単なる(進化した)生理現象の一つである。
またそれはまるで下手な建築のように、設計者(自然法則)が思いつきで増築を繰り返すがごとく、行き当たりばったりに積み重ねられた構造に依存し、理想的な(つまり生きやすく生き残りやすい)方向性とはかけ離れた結果を招きやすい。
今のところ現代科学が指し示すのはそのようなことだと理解しています。

ただしこの結果生じた「意識現象」が自分や自分以外の人間の生理現象に何らかの影響を及ぼしうると言う(経験的な)実感もまた無視できません。

遠隔治良も直接治良も「緩む」という実感と結果の間には相関(感覚的には因果)関係があると私は考えています。
ただその詳細なメカニズムについては、医学的科学的な説明は事実上無理で「メカニズムや効く理由は不明ながらも使える技術」という位置づけです。

では最新研究が裏付ける私の理解と、実感が指し示す“事実”の間にある乖離はどのようにつなげてゆくべきなのでしょうか。
「分からん!」と切り捨ててしまうのが一番楽そうですが(笑)

意識が純粋に脳内に生じる生理現象であるとするなら、それはシステム全体を生存に適応させるための反応の結果であり、そこに自由意志と呼べるものが存在する余地はありません。
つまり私たちの生理状態は他者の意識以外の要素が決定することになり、遠隔であれ直接であれ治良という“施術者の意識状態が結果を左右する”はずの行為はやってもやらなくても最初から結果は同じ、と言う結論が導き出されます。
ただ現実は「治良するのとしないのとでは明らかに違う」ケースが有意に多く、上記の結論を妥当とすることには無理があります。

同時に意識は主体であるとする説明にも違和感がつきまといます。
まるで私たちの内部や周辺不可視領域に「主体たる実体」が存在するかのように前提する主張と現代科学を模した説明は、すんなり受け入れるには抵抗がありすぎます。
もちろん超自然的な存在の想定も然りです。
いずれにしてもこれらは議論の対象というよりは一方的な主張であり、論理無き理論という方が正しいとしか言い様のないものばかりです。
いつの日かこれらが「妥当だ」と言える日が来るやも知れませんが、現状においてはせいぜいが「不完全未満」というところでしょう。

当然私もそのレベルでしか語ることが出来ません(スミマセン)が、ヒマがあるとそのことに気が向いてしまうため、良くも悪くも自分に対する説明は変わり続けています。
そんな私の最新の“言い分”は

私たちは原則「よくわからない圧力」によって、死から遠ざかるという“本能”が働くようになっている。
ただしそれは脳をはじめとした臓器組織、そしてそれが作るシステムが「ある程度本能に沿うように働く」ことが前提。
イメージとしては、生命を永らえようとする圧力(自然法則の一部)が実体(人体)を突き動かすが、十分に高い圧力を持つ水のようにほとんど隙間無くホース内を通って出て行く。
わずかに生じた水流の揺らぎや圧力偏差によって隙間、あるいは結果のフィードバックによるシステムの揺れがあるため、本能由来以外の自由意志が生じる余地が全くないとは言えない。

参考:「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)

これが意識の方向にわずかだが影響する。
そしてそれは私たちに常時生じている反応で、言い換えるならば「結構隙間だらけで色々スキだらけ」であり、同種の反応(意識の揺らぎ)の介入を受け入れる素地となる。
五感覚が物理的な変動の流入を原則止められないように、周辺の意識現象にも常に何らかの影響を受けているとみるのが正しい、ように私には思える。

というものです。

いつも通り自分勝手な理屈ばかり並べていますが、日々実感していることとの整合性は十分にとれます。

本当の意味での「メタ認知」というものがあるとしたら、つまり「自分」という強固で原則俯瞰が出来ない枠をみることが出来るとしたら、それはスキだらけでゆるゆるでうまく認識が出来ない領域に身を委ねてみることかも知れない。
私は最近そう思うようになっています。

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