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洗練

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洗練と言うこと

ミツバチも「悲観的」になる:研究結果と言う記事がネット上にでていました。
悲観的という状態は感情というものとセットになっていると考えられていました。
ですからこの結果が正しいとすると感情セット説に誤りがあるか、もともとミツバチにも感情があるか、それ以外の理由でそう観察されるかのどれかです。
尤もこのレポートが荒唐無稽である、と言う可能性もありますが。

感情の定義にもよりますが、生存に必要である以外の思考、と言うふうにここでは解釈してみます。
自然発生的に生じたものとは言え、なんともやっかいな機能を獲得してしまったなあと個人的には思います。

さてこの「やっかいなものを捨てて効率的、機能的、あるいは合目的に特化してゆく」ことを洗練と言います。
人ももしその第一義が生存そして遺伝子のコピーであるなら、現在の私たちはとても最終形とは言えない、未成熟な状態であると言えます。
しかし無駄がない、つまり洗練され尽くされ一切の非合目性がはぎ取られたとき、私たちは案外簡単に滅びてしまうのではないかと推測されます。

その理由は一言で言えば“アクシデントに弱いから”です。
あまりに直線的な、ひもで言うならぴんと張りすぎた状態、組織ばかりで構成されたシステムは、反応はソリッドになりますが、想定外の変動に柔軟に対処できる幅を持ちません。

変動が多い環境で生活する野生動物は、確かに個体数やその世代交代の早さもあって、多少機能の省略された個体でも問題はないのかもしれません。
しかしそれでもやはり少なくない変化の幅を持たなければ厳しい環境を生き抜いていくのは難しいのではなかろうか。
私はそう考えます。
そんな彼らが私たちと比べれば未熟と見えるような神経系でありながらも、無駄の代表とも言える感情の揺れを持っていたとしても何ら不思議ではないでしょう。
私たちのそれとは違うかもしれませんが、私たちがわかっていない、あるいは認識できないだけで案外いろいろなことを考えている可能性はあります。

洗練の極みにあるものはある種独特の迫力を発します。
すごみと言い換えることができるかもしれません。
無駄の多い中でそれを達成することには意味を感じますし、またそう言うことがなければ混沌とも言える多様性の中で方向を見いだせないこともあります。
しかしそればかりでは困る、と言うのが自然の出した答えならば、生態系というのはなかなか侮れないポテンシャルを秘めている。
つくづくそう考えざるを得ません。

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