治良中は何をしているのか 2012
治良中は何をしているか 2012
神経学の勉強は少しお休み。
相も変わらず「治良を正確に説明できない」状態の私ですが、それでもやはり何らかの言語化は可能なのではないかと、あーでもないこーでもないと少ない脳みそを日々ひねくり回しています。
そんな中で少しだけ「これは(比較的)的確かな」という文章を思いつきました。
謎が多く、そしてそれ以上に自分の語彙の少なさゆえに、なにより自分にとってなかなか整理しづらい考え方だらけの「治良」ですが、最大級の困りごとは「自分はいったい何をみているのか」ということです。
現在の形(といってもまだ発展途上ですが)になるまで、それはもういやになるほどの試行錯誤がありました。
健康とは何か、病気とは何か。
そして人間というシステムとはどのように規定すべきなのか。
うんざりするほど本を読み、そのたびに認識や方法論を変えてみたりもしました。
しかしやればやるほど、勉強すればするほどその正体あるいは実態はぼやけるばかりで、そして一般化しようと目をこらせば懲らすほどあやふやなものにしか感じられなくなりました。
当然、自分が何をすべきかというアプローチに関しても、方向性が定まらずうろうろしていた時期も少なからずあったわけです。
治良屋というか職人仕事においてもっとも困ることの一つに、この「何をすべきかわからなくなる」ということがあります。
これをもう少し詳しく書くと「自分の体が感じている(治良においては)治良と、実際にしていることの間に乖離がある」ということになります。
体、この場合は無意識といっても差し支えありませんが、の指し示す方向性というのは、経験や熟練度によって段階はあるものの、基本的には(少なくとも本人にとって)そう間違ったものにはなりません。
しかし大脳をこれだけ肥大させてきた私たちの体は、そこに生じた思考や意識というものに大きく左右されます。
何度も申し上げますがこれは集団生活を必要とする動物である人間にとって絶対に必要なものであるのですが、反面どうしても答えが甘くなるというか、極限まで微分を必要とすることに関しては力不足を露呈することもしばしばです。
大量のデータを高度に処理するができればその精度は格段に上がりますが、すべてにおいてそれが通用しないというのもまた事実なのです。
で、どうしても最終的にはどうなっているのかと考えてしまう自分の性状は、あまり高回転型とは言えない大脳機能と相まって、気がつくと何が何だかわからないところにはまり込んでいました。
話を戻します。
そんなこんなで「自分が今どんな位置にいて、どこへ行こうとしているのか」が定まらずずいぶんもがいていた時期がありました。
治良を研究しているうちにわかったことに「できるだけ意識を介入させないことが理想」というものがあります。
思考や意識が悪いわけではないのですが、無限のパターンを持ちかつきわめて流動的な体の状態を、いくつかのわかりやすい“色分け”をして型にはめるのは、個人的にはどうしても納得ができませんでした。
可能な限り微分しながら、同時に全体の方向性を見極めるためにはどうしても「即時に対応してくれる」無意識の反応が必要でした。
で、そこまでわかったのはいいのですが、その状態、つまり施術側の体が治良を進めてくれている状態を、私はどのようにとらえるべきかというのが当面と悩みとなったわけです。
上っ面の言葉では説明をつけられるものの、その実態は全く理解できず、そして当たり前に納得などできませんでした。
もっとも、説明をつけないというのがきわめて現実的な解であり、それでも全く問題は生じないのですが、理屈っぽい私はいつもそのあたりがもやもやしていました。
そんなこんなではっきりしない状態が、あくまで自身への説明性という点ですが、続いていたのですが、最近ふとしたことから次のようなことが、はっきりとわかってきました。
自分がしていること、つまり治良というのは
・治そうとイメージを固めてもうまくゆかない
・そのためには無意識領域を優先させる必要がある
という特徴があり、これを現実に反映させるために意識的な操作を控える必要があることもほぼ間違いないと確信しています。
それ故にアプローチ前のマインドセットは「揺れている自分をひたすら観察し、その上で相手をイメージしてみる」というものでした。
こうすると“なぜか”良く反応する、というのがわかっていましたから。
そして最近理解(頭で理屈を組み立てられるという意味で)したのは、ただ黙ってみていることで「クライアントと私自身の本当の状態」が無意識に反映され、自分自身がその状態に対してどのように関わるべきかを決定し実行している、ということでした。
するべきことの決定実行プロセスとはそのようなものであり、それこそが治良そのものであると私は今のところ考えています。