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機械は意識を持つか

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機械は意識を持つか

以前「機械も膨大な記憶部分と高度な処理能力があれば意識を持つ」と言ったことを書いたことがあります。
毎回ですが自分の考えをまとめるために書いているので、あとから読むと「あれ?」と思うことも書いてたりします。
今のところこの件に関しては正誤の判断が出来ないので、お読みになった方がして下されば、と思っています。

最近脳の中の幽霊と言う本を読みました。
心のありよう云々と言うよりも、脳の中で起きていることを書いた興味深い本でした。
初版が20年以上前のものですから、現在の方がずいぶん進んでいるのかも知れませんが、初心者の私には面白く読めたことをご報告いたします。

その中身を完全に理解したとは言えませんが、次にような内容には納得がいきました。

・感覚の処理においてそのままストレートに投射されるデータは無く、内部で編集、解釈が起きている。
・また一直線に処理部位だけに到達するデータも無く、情報として認識される以前に多数の部位によって多重処理が行われている。
・このとき、複雑なフィードバックループが形成され、互いにやりとり、確認しながら情報を生成してゆく。

一方以前から何度も書いたこと、考えたことの整理になりますが、

・意識は脳のアクション後に起きる、後追い反応である
・故に基本的には意識(あるいは思考が)行動を先導することはない
・脳内にご褒美を与える系(報酬系)に弱く、これらの要求が時には生理的な要求を凌駕する

さらに脳の基本的な性質として

a.出来るだけ死から遠ざかりたい
b.そのために行動をそのように仕向けたい
c.脳の内部反応は可能な限り効率化したい
d.a.bを達成するため危険を遠ざけたい
e.dのためには過去の成功/失敗体験を元にフィードフォーワードによる回避を行いたい
f.b~eに先立つ条件として、脳の中の状態管理を最優先したい

と常々脳は考えている(?)コトが理解できました。
図々しい臓器ですがですが、私たちはそれに逆らうことが難しい生き物なので、仕方ないかとも思います。

これらのことから意識というものがどんなものであるか、現在私なりに調べて考え至った結論は

・脳のどこかに「意識を宿す部位」があるわけではなさそう
・記憶、認識を想起させるシナプス(神経素子同士のつながり)が常時起きており、これらは互いに複雑なネットワーク化により連結し合い、一定の条件下においてこれが強調され意識上に上る
・意識されるためには最低0.5秒以上それらのネットワークが興奮し続ける必要があり、それ以下の時間だと記録はされるが明確に記憶されない
・「意識に上った記憶」は“必ず(絶対あったままのデータ/情報ではない)”脳内で編集を受け、保存される。
・無意識領域で処理された記憶は即座に思い出すことはできないようになっているが、忘れてしまったわけではないことが多い(らしい)。
・上記e項にある意識された/されずに処理された「記憶」は、編集変更改ざんを受けつつも、次に行動へのフィードフォワードとして利用される
・ただそれらの体験は事実上無数に保存されており、すぐに意識に上るものから全く上らないのに“心にささやく”ものまであり、多数の選択肢を提示する。
・最も成功率の高い見解を導くために出来ることならばこれらを可能な限り統一したい。
・このときに生じる「成功失敗体験同士を結びつけるためにおきる反応」が意識であり、行動を起こすための決定権を有するものではない。
・一方上記c項にあるように、これらの反応を出来うるならば自動化、つまり無意識で行えるよう自動化したい。
・そのためにはよく成功する、つまり効率的な行動を起こさせる反応ルートを確保し、それらを報酬系などの力を借りて積極的に活用できるようにしておきたい
・保護するためにはこれらの経路を興奮させるための条件には近づき、逆に反応を阻害する要因(例:その行動思考に対する疑問を抱かせるような考え)を排除する必要がある
・これらはf項にあるように「あくまで脳の内部の状態」が優先され、脳が求めれば何でもありである
・そして保護された反応経路群は(多分)最優先保護区であることが理由で「このほかならぬ私」という感覚を生み出す反応がセットになっている
・それは侵襲に対して強い抵抗を示す
・これらは記憶サーキット同士の連結度が低いほど不安定であり、保護反応によってより強く「理解できないものへの抵抗」をする。
・これが自我とよばれるものである

長々と書いてしまいましたが、意識、自我についてまとめて書いてみると

「脳味噌は常に自分を気持ちよく(=記憶同士の整合性と快楽反応の惹起)しておきたい。ついでに出来るだけ生きていたい。そのためには記録は都合のよい“記憶”として保存し、それに沿って効率よく動く体にしておくことが大切。そのためには常にいろいろ思い出してもらって、気持ちのよくなるような行動をとるように躾けたい。その行動するための脳の反応はとても大切で、これを揺るがすものは断固排除するよう脳味噌自身も身構える。これは他ならぬ私という感覚を生じさせるようにしてあるので、よほどの変人でも無い限り守られるもの」

となりましょうか。

さて表題の「機械は意識を持つか」ですが、上記の論からすると

・単一の効率的な経路の集積だけではだめ
・大量のデータ処理を瞬時に行えても、それが「最も効率的な行動を起こすために仕込まれたプログラム」に基づく限り、やはり意識とは呼べない
・これらは反応同士のネットワーク化によって、ボトムアップトップダウンが当たり前に起きてある範囲に確定した方向性を持つように仕組む
・そもそも意識というものが実体を持つかのように考えること自体がだめ

となります。

最低限「消滅したくない」という、ある種理不尽な欲求をもっていること、そして“実感を伴う経験、体験”という「変容した記録」=記憶同士のせめぎ合いにより生じる記憶同士の強化反応が必要かと思われます。
さらにこれを出力し、そのフィードバックを得てシステムの安定化に寄与するための反応も欠かせません。

問題は「消滅したくないと言う欲求」と「実感」です。

前者は保護プログラムとしてなんとかなりそうですが、これに結びついて、あるいは内部の“快楽反応”に突き動かされて起こすリアクションを伴う「実感」は一筋縄ではいきません。

現状最も分かりやすく、そして整合性のある理論書として私が参考にしているひとつ、吉家重夫著 統一場心理学には

 この実感・体験する性質は「他ならぬ私がここにいる」という絶対的な認識をもたらします。219pより引用

とあります。

また吉家は同著で

 つまり「私」という概念は、心の原理原則を考える上では最も川上にある概念というわけではないと言うことなのです。
 中略
 そこで、最も根元気な性質であると考えられるのが、実感・体験する「主体」という性質であると考えます。220pより引用

としています。

基本自我というものは意識という現象(私はこれを実体のあるものと言うよりも、生き残るという目的に向かって生じた現象と考えます)を抜きにしては語れないと私は推測しています。
また自我が生じなければ意識も維持できず、いずれ霧散してしまうのではないかとこれも強く推測(確信に近い)しています。
意識を生み出す条件として「実感を伴う体験」は不可欠で、脳へのフィードバックなしでは通常の反応さえおぼつかないのが脳という臓器らしいのです。
まだ実感の正体を詳しく解説できるまでには至っていませんが、脳以外からのフィードバックによって生じた一定時間/強度以上の信号による脳の強制的な興奮をそのメインメカニズムとするなら、コンピュータ単体では意識の発生には至らないのかも知れない。
ただし私の稚拙な考えが原理原則に近いとすれば、将来的には不可能とは言い切れない。
今はそのように考えます。

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