越田治良院へようこそ あなたのココロとカラダをリセット

方向音痴と治良

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方向音痴と治良

激烈な方向音痴。
それが私です(笑)。
仕事柄、勉強会などで初めての街に滞在することがあります。
皆様もご存じの通り、都会と呼ばれるようなところの中心部は大体似たような景色になっています。
そんなよく知らない、しかも特徴らしき特徴がはっきりしない町中で、私のような方向音痴は1~2回角を曲がっただけで帰り道がわからなくなります。
デパートなどでもすぐに出口を見失い、自分の住んでいる住居の立体図がいつまでも思い描けない。
方向把握に苦労しない人から見ると信じがたいことらしいのですが、同じような方向音痴の方たちと話すと概ね意見が一致しています。

さてではなぜそんなことになるのか。
大脳生理的な解析は不勉強にして詳しくないのですが、経験として何となくわかってきたことがあります。

普通の、ここでは方向がきちんと把握できる人たちは、どうやら(当たり前らしいのですが)目的地への経路を“データ”として理解しているようなのです。
”この建物のカドを右へ曲がった後、100mほど先を左に折れて20m右側”というように、言葉あるいはデータとして実際の状況を関連づけて把握している、らしいのです。
らしい、というのは私はそんなおぼえ方を(普段)しないからです。

私事ですが、小さい頃から「絵」を描くことについてはよく褒められていました。
別に筆遣いがうまいとか、色の出し方が素晴らしい、と言うわけでは無いと思います。

褒められたのは「視点」でした。
「コシダはどういう視点でそれを描いているのか?」
大体教師にきかれるのはそんなことです。
私としては質問の意味が判然とせず「いやただみたままを(時間が無くなって)そのまま描いただけ」と答えるしかないのですが、そんな適当な絵でよく賞をもらった記憶があります。

写生会などで似たような位置から似たような風景を描いていた友達の絵と見比べてみて「あーそういうことか」とわかったことがあります。
私の絵は本当に「みたままをそのまま(てきとーに)描いた」もので、友人のそれは「描きたいものをデータ化してきれいに描いている(かのような)」ものでした。

ある授業で屋外写生をしたときのこと。
海辺の風景をロングショットで描こうとしたわけですが、目の前には大きな木があり、その枝が割と風景に入り込むような場所に陣取っていました。
私はその目の前の枝葉を(時間が無く面倒くさかったので)そのまま描き、その後ろに小さく並ぶ家々を薄ぼんやりと描いた絵を提出しました。
友人は枝葉を避け、あるいは無視するように遠くの風景を緻密に描いていました。
「うまいしきれいだな」とそのときは思ったのですが、よく見比べてみると何となく違和感があります。
なんというか(今思えば)立体感のようなものが欠けていると感じていたように思います。
少なくとも私の目にはそのように映りました。
尤も私の絵もそうエラそうなコトを言える出来ではなく、なんというかぶれまくりの写真のような感じでしたが。

で、そんな(どう見てもへたくそな絵が)入賞してしまい、「何でこんな絵が・・・」と我ながら(たびたび)うろたえたものでした。

方向音痴(女性の方が圧倒的に多いそうですが)の人たちのうち、当院にいらしている方の話を総合するに、どうやら同じような認識をしている方が多いなと言うことに気がつきました。
つまり「あの建物の入り口を右にしてその先を左に曲がる」という憶え方をせず、通ってきた道を(かなりまばらに)スクリーンショット的に目に焼き付けているようなのです。
データとして関連づけているわけではないので、建物のを含めた概観は(おおざっぱに)憶えていても、それらがどのような名称を持つのかと言うことに関しては、ほとんど全く記憶していないのです。

上記の写生の例でいれば、目の前にあるものをそのまま(アナログ的に)処理できても、jpeg画像の中の看板が文字情報として認識されていないようなものでしょうか。
看板名で検索をかけても無意味、と言うことになります。
おそらく件の友人の頭の中は「三角屋根の家が~軒みえて・・・」といった感じで、対象を彼なりに解析、把握してデータとしておさめて、それから改めて出力して絵だったのでしょう。
どちらがいいとか言う問題ではもちろん無く、脳の性向の違いと考えるべき話かと思われます。

そんな「全体を個別の集合体とみないで」把握する方向を好む私は、治良においてもどうやら同じロジックで把握、処置しようとしているらしいのです。
長年の習慣、あるいは習い性でクライアントの状況を解剖生理学的な要素へ還元しようとします。
しかし一方でそういった「切り分け」を拒む自分もいて、「今自分が理解しようとしている状況は、(常識を気にしすぎる)自分というフィルターを通してみたクライアントであって、それがイコール自分のすべきことをさし示すとは限らない」と、経験を元にした実感が自制を促します。

客観性妥当性を持つ知見への還元がなければ解決しない問題はつねに存在します。
同時に要素に分解したとたん、正体がわからなくなる問題というのもまた厳然とあり続けます。

どちらが正しいのかと以前は常に考え、白黒決着をつけようしていました。
しかし今はどちらが治良に、そして自分にとって(今の時点で)必要かを考えられるようになりました。
ただしやはり基本的な脳の仕様は、状態を一端解体しデータ同志を関連づけることには意味を見いだしづらいようです。

方向音痴である私はそのときそのままの状態を観察し治良する方を好んでいるようです。

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