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成長っているの?

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成長っているの?

成長:Weblio辞書によれば
「せい‐ちょう〔‐チヤウ〕【成長】
[名](スル)
1 人や動植物が育って大きくなること。おとなになること。「子供が成長する」「ひなが成長する」「経験が人を成長させる」
2 物事の規模が大きくなること。拡大。「事業が成長する」「経済の高度成長」
だそうです。
生理的な成長はべつとして、現代社会では困難を打ち破ってこそ成長がある!だから素晴らしいみたいに使われることが多い気もします。

これに対し「がんばらなくてもいいんだよ」「そのままで大丈夫」などの相田○み○お風のフレーズもよく耳にしますが、これらよく聞く言葉の効用や意味ってなんなのでしょうか。
頑張り続けよう!vsそのままでOK。
今の自分はどちらをとる、或いはよっていくべきなのか。
早速検証してみましょう。

まずがんばらなくてもいいんだよから。
これが出ると言うことは言われた側が「頑張っているけれど物事がちっとも進展していない状況」にあり、端的に書けば「空回りしている」のでまずは(頭の中を含め)動き回らず力を抜け、という指示に近いものだろうと考えます。

次にそのままで大丈夫。
これはやはり言われた側が現状とかけ離れた理想像を勝手に頭の中に作ってしまい、今ある現実を認識できず混乱しているときに使うものだと推測されます。
大金ゲットを日夜夢想している人が今の収入なりの生活に現実感が持てないでいるなんていうのもそのひとつでしょう。

認識という反応は常に実感とセットになっている、別の言い方をすれば脳内世界において整合性のある意味づけがなされることで成立します。
今経験していることがすでにある記憶とこれに紐付いている体の反応に結びついて脳内世界におけるポジションを獲得すると言い換えても良いでしょう。
なのでこういう場合いくらネットで大金持ちの話を読んでも、お金で得られる豊かさの一端を自分の経験にリンクさせるのが精一杯で、そこへ行き着くための具体的な在り方をイメージするのは至難の業となります(だから夢想なのですね)。
そんなとき目の前の現実に対しては「こんなのは本来の自分ではない」などと考えがちになります。

どちらにしても現実を大きく変化させることが出来ない中で、ただただ力んだり疲弊しているので一端お茶でも飲んで落ち着け、というわけです。
 
ではベクトルが一見正反対の成長すべき論はどう考えるべきなのか。
文字通り「人として成長し続けるべきだ」などのよく聞くお話のことです。
副作用としては「いずれ疲れて続けられなくなりその後の疲労感がすごい」ことになりがちで、どこまで頑張りゃえーのよ?という疑問が頭に浮かんだらGAME OVERです。
社会のためにとか人生はそういうものだと言われても、それこそ実感と結びつかないお題目としか思えない以上、なんのことやらとなるのは当然です。

ここで表題の「成長っているの?」という疑問が浮かび上がってきます。
どんな理由で今の安定した状況にある心も体も変化させる必要があるのか。
そう考えるのは極めてまっとうな感覚を持っているゆえです。
この問題を考えるためここでは「停滞」を成長の対義語として考えてみます。
ならば「成長は必要=停滞はマズいよ」論と言い換えることも可能そうですね。

そのままの君でいいとか、今のままで全然問題ないよ。
先に書いたとおり短期的には「自分の状況を把握するためには必要」と言えそうですが、これを停滞を促すものととらえるとずっと(一生)そのままで変化無しにいられて何の問題も無いよとなりますが、これですんでしまう人の方が珍しい。
私はある理由からそう考えています。
まず人は変わると言うことです。
社会の変化とか世界情勢がどうのなどという壮大なスケールの話はよくわかりません。
心は移ろいゆくとかの文学的な話もさっぱりです。
ただ年齢と共に少なくとも体の方はあれこれ変わるわけで、体力は無くなるわ脂っこいものは食べられなくなるわこまいかい文字が見づらくなる(笑)など、ようは「加齢による変化」は何をどう頑張ってもその程度の差こそあれ絶対について回ります。
ところが脳内世界、つまり自分が構築したイメージによる「認識するためのサーキット」は逆に年々変化を拒むようになるので、それで無くてもずれまくりな認識がさらに現実との乖離を大きくしてゆくことになります。

ずれまくって何が問題か!
そんな主張だったあるでしょう。
もちろん問題なんてありません。
現実と脳内世界の間の齟齬に、認識をはじめとした「判断のための反応」が混乱の末に機能低下するのがイヤで無ければですが。
あるいは年々加速する「体の問題」、有り体に言えば出来ることが少なくなったり痛みの出現やら病気になるリスクの増大に困らなければですが。

またこれにすこし重なるようにして自分の周辺環境も否応なしに変化してゆきます。
パートナーがいればその人だって年をとりますし、自分だって昔のように動いたり出来なくなっていきます(普通は)。
パートナーがいなくたって無人島住みでもない限り周囲の人や環境は変わり続けるでしょう。
多くの人においてはお金の出入りの仕方も変わっていき、若いときの金銭感覚でそのまま過ごせる人の方が少ないと言えましょう。

ざっとみただけでもこのように「変わらないでいられる要素の方が少なそう」なのが人の一生に訪れる変化のようであり、この中で逆に年と共にガードが堅くなり再構築を拒む脳内世界つまり「歳をとって頑固になる」という生理的な反応とせめぎ合う結果となります。
もちろん現実は大抵待ってもくれませんし容赦もありません。
だから現実に追従できるようあれこれ工夫しながら諦めたり改善したりしつつ脳内世界を再構築する。
あるいは出来ることや生理的な適応範囲を維持しようと体を鍛えるな等をする。
人はそのようにしてしのごうとする方向にも行ったりします。
必要なのは「変化への追従とその集積がもたらす適応性の獲得」であり、よほど周辺環境が寛容鷹揚な状況で無ければ「生きる上で絶対獲得内包しておくべきコト」だと考えて差し支えないでしょう。
ここを理解、少なくともある程度納得しておかなければ意味もわからずエネルギーばかり使う羽目になります。

「生きる上で変化に対応することは必須だが、それ自体が目的ではなく、脳内世界と折り合いをつけながら“生き抜くために”工夫を続けるべし」ということでしょうか。
ついでに書くと「こちらの想定は大抵ずれた認識が作るものなので、失敗やら停滞やらはある程度あると思っていた方が無難」だと個人的には思っています。

というわけで成長という言葉の定義を「変化への適応性の獲得」というならば、そして変化しないことで増えていく生きづらさを減らしたいならば「成長」なるものは「いらないとは言いがたく出来ればしておいたほうが生きやすくなりそう」と思っています。。
ただしあまり頑張りすぎて成長し続けようとするとへたり込む結果になりそうなので、そのあたりは良い意味で「テキトーに」とアドバイスしておくものであります。
“生き抜こう”とすれば成長も停滞も勝手に向こうからやってくるというオチかも知れないですけど(笑)

Hさん、治良中こんな長い話できないのでここに書きました。
ご納得いただけましたか?

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