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意識の問題2

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意識の問題2

前稿意識の問題では意識されタグのつけられた記憶のことをかいてみました。
ここでは意識の兄弟「無意識」をからめて、脳の働きをもう少し考えてみたいと思います。

意識の問題でも少し触れたのですが、私たちが保持している記憶は次のように分類することも可能です。

・意識された記憶→当該領域発火0.5秒以上で生じる、明確かつ言語化可能な認識

これに対し無意識が保持している記憶は

・当該領域発火0.5秒未満で、認識はしているもののすぐに言語化できないモノ

となるでしょう。

注意は一瞬向くが、それがどのようなイメージと合致するかをすぐには比較参照できないため、大きなイメージ(たとえば自我)にリンクさせられずしばらくは単独のまま脳内にある、と考えられます。

この無意識がとらえたイメージはたとえば五感によるモノなどが代表的であると言えましょう。
今私が打っているキーボード。
視覚、聴覚(打鍵音)、嗅覚、触覚が並行してその存在を脳に伝えています。
それぞれの感覚器から入力されたデータ(まだ情報ではありません)は、各々の処理領域に届けられ、それ以前に処理の終わった記憶と関連づけられ、自分の中でどのような意味を持つのか(どのような位置づけの情報なのか)を理解するために解釈が行われます。
その中で特に「必要あり」と判断された情報は、より多くの脳内リソースを使いながら、内部におけるより大きなイメージ塊とリンクさせられ、あるものは明確な「記憶」として残るでしょう。

しかし今こうして打っている間の五感覚からの入力も、ほんの一瞬認識はされますが、それがどういったモノでどのようなイメージを自分の中に喚起したのかをすべて記憶できる人はそうそういないと思われます。
あるいはその一瞬の認識でさえできず、わずかな痕跡を残すのみで「そんなことあったっけ?」となる入力の方が多いというのが現実でしょう。

私たちは入力されたデータを、出来れば何らかの「情報」に仕立て上げ、さらに可能ならば他の情報とリンクさせ、もっと贅沢できるのならば内部の情報塊に合致するように持って行きたいわけです。
その理由としては

・生のままのデータ、あるいは量的に小さい/他との関連づけの少ない情報は内部において単なるノイズであり、非常に扱いづらい

と言うことが挙げられます。

少し話は戻りますが、大脳の中では絶えず入力に対する「思い出し」が行われています。
この触った感じってこの前リンゴ(と言う名称の物体)を触ったときにそっくり。
この味は風邪薬に似ていてる。そういえばあの時はひどい目に遭ったなあ、でも家族には優しくしてもらえてうれしかった・・などなど。
そのときの体感や心象風景を脳はいろいろなイメージに瞬時にかつ連鎖的なつながりを持たせ、入ってきた情報をどこにどう関連づけて取り込むかを決めています。
自分の内部において自分を構成する安定的な情報に対して肯定的である場合、その情報は自我を安定させるための補強材として採用されます。
自我を揺さぶり安定を脅かすような情報の場合、これらは情報塊から排除され、間に新たなクッション情報を挟みながら、普段出来るだけ思い出さないような位置づけをされます。
ただし内部に保管されている情報のすべては数の多少はあっても、必ず他の情報との間にリンクが生じています。
入力→リンク先をたどり思い出す(関連づけられた先の記憶を参照する)→関連づけ、意味づけされる・・・・を繰り返していると言ってもよいでしょう。
驚いたことに通常我々は起きている間のほとんどをそうやって過ごしています。

このようにして「データを他と関連づけた情報として生成し、出来るだけ大きなイメージの一部として扱う」が原則の脳において、明確に思い出せる記憶、つまり意識(注意反応)を向けることが出来るレベルのモノは、その挙動がまあ比較的簡単に理解できます。
0.5秒以上の発火を伴う情報は、他の情報とのリンクによりいろいろな修飾を受けタグにより分類され、割と簡単にたどり着くことが可能です。

ではこの稿の最初の方にある無意識、つまり入力に対して反応はするものの当該領域の発火0.5秒未満の反応群、がとらえた様々なデータ/情報はどうなっているのでしょうか。
これは意識された情報と違い、タグはついているいるけれども「明確に意識された情報」とは容易に一致せず、利用しやすさという点では意識情報(と呼びます)よりも一段下に置かれることになります。
ただし量的にはこちらの方が圧倒的に大きく、膨大と言ってもよいくらいの規模になっています。
大げさに言うと生まれてから現在まで、みたモノ触れたモノ感じたことなどをすべて収集、記憶しており、その中で特定の局面における重要度をもったと判断されるモノが「意識され」、そうでは無い大多数のデータとそこから生成される情報は、そのほとんどが生涯利用されることなく”ただ在る”状態におかれてゆきます。

ただ時々「あ、そういえば」といった感じで、意識の表面に上ってくることもあり、それがとても重要な情報を補強したり、行動の決定に関わるキーになることがあります。
これを通常「気づき」と称します。
特定の人たちがことさら重要視する傾向にある脳内反応で、しかしそれは神が降りてきたと説明されるようなモノではなく、実はふらふらさまよっていた「浮浪情報」が、他の意識された情報の補強的意味づけに一役買った結果、と言うのがより妥当な説明であろうと私は考えます。

「でも気づきあるととてもうれしくなるのはなぜ?」

それを繙く前に脳が情報を扱う際の反応を復習してみます。

脳はただのデータ情報に意味をつけて、つまり自分の内部で扱いやすいように“解釈”を行い、それを現実としてとらえます。
それは常にリアルワールドとの乖離を必然的に伴いますが、多少の誤差は脳内で補完し気づかないように仕向けられ、大抵は日常生活に支障の無い出来事としてスルーされます。
情報量の増加は内部のイメージを補強しますが、そのイメージと現実(入力)との間の違いは、内部において認識の齟齬を生じさせ、これが苦痛の背景となりえます。
この苦痛を糊塗するため、量的あるいは質的にそれらを遮蔽するだけの刺激を脳は必要とし、それは止むこと無く要求され、脳にとっても「どうってコトのない日常」になってゆきます。
そのひとつが「意識現象」という局所的な生理集中をおこさせる反応で、この強力かつ強引な注意集中現象により、脳が感じつつも無視したい「現実との齟齬」を一時ですがごまかしてくれます。
同時にこの意識された情報は、「死にたくない/快感を得たい」反応とつながるようリンクづけられ、特定の意識現象はそれが起ち上がるたびにご褒美がもらえるようになります。
そうして自分自身に「餌付け」を繰り返すことにより、それは何よりも大切な反応として保護され、やがて「それこそが自分という存在そのものである」と巧妙に勘違いさせられることとなります。
これを「自我」と呼び、意識現象が最も集中しやすくなる情報塊であり、その容易な生理現象集中癖ゆえにそこを意識の中心として認識させられるようになります。
「今ここに間違いなく存在し、他とは違うかけがえのない私」という、いわば自己保護反応の極みとも言うべき、ガードの堅い意識反応が生まれます。

さてこのようにして脳に「自分というお城」を築き上げるのですが、

・現実を自分の扱いやすいように曲げて解釈し
・それが内部の認識の歪みを生み
・苦痛の背景となり
・それをごまかすために刺激を走らせ
・それを集中させた結果が「意識」となり
・さらなる外部との隔絶を促す自我を生じさせる

と言う流れが常時生じているのが私たちの脳である、と言うことが確認できました。
つまりこれは釈迦がどう言おうとも「私たちについて回る性癖」そのものであり、そう簡単に解除も変容もさせられない基本性質であると言うことになります。
そんな中でひっきりなしに飛び回る情報は、それを扱う脳細胞がわからすると「出来るだけ少ないエネルギーで運用したい」コトは疑いの余地がなく、いちいち探し回らなくても探しやすいところ(自我などの大きな情報塊)にいてくれるのがありがたいという、蓋然性の高い推測が成り立ちます。
無意識レベルが扱う「意識できない入力反応」も、できれば大きな情報にリンクさせ、そのことによって

・情報塊は自分を補強し
・ふらついていた情報は安定的に運用できる

という双方にとってメリットのある状態にしておきたいわけです。
だからこそ「気づくとうれしいし、ほっとする」という心持ちになると、私は考えています。

くっつきそうでくっつかない情報はイライラの原因。
私たちの脳はそんな風に出来ていると言えそうです。

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