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必要であると言うこと・・・・2

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必要であると言うこと、好きであると言うこと、求めていると言うこと 2

前稿で「求めていることは好き嫌い、必要不必要とは少し違う」というようなことを書きました。
必要不必要は個人的社会的に、好き嫌いは頭の欲求がその根源である。
そのようにも書きましたし、今もそう考えています。

さてでは、“求める”は何がその背景となり得るのでしょうか。
心理学的な考察は専門家に任せるとして、治良屋としての見解を書いてみます。

6/3(金)の外部記事リンクに、私は次のような記事を載せました。
動物の細胞は自律的に集まって器官をつくっていた。巧妙な仕組みの謎が明らかに!~再生医療への応用期待
このように自動的により大きなシステムを作る働きを(正確には違うかもしれませんが)自己組織化と言います。
これはその細かいメカニズムの一端が明らかになったことを書いていますが、同時に統率する働きやシステムがなくとも、生物は自分の生存に有利なように自己調節を繰り返している可能性をうかがわせるものでもあると私は考えています。

私は「(私の言う)求める」というのが、こういったいわば生存そのものとも言える営みにが大きく関与しているとみています。
細胞そのものは全体を俯瞰しているわけではありません。
せいぜいが自分の接している細胞と限られた情報をやりとりしているだけであると考えられています。
各組織もしかりです。
細胞より大きなシステムを構成しているので、場所的に離れていても関連臓器の反応を内分泌系や神経系を介してモニターしていることも少なくありません。
しかし「体全体が常に安定するように“考えている”」訳ではないのです。
つまり隣のことは知っているし会社のこともそこそこわかるけれど、日本あるいは世界全体のことを日々考えて暮らしているわけではない我々と同じようなもの、と言うわけです。
そこにあるのは自己組織化を繰り返しながら、徐々に代謝が衰えてゆくという法則だけです。

生きんがための各組織の欲求と、そこに加えられた経験から来る思考。
これらが渾然一体となったものを体という無意識は常に意識に先立ってキャッチしているのではなかろうか。
それは「生き抜く!」という一点においては純粋ですが、内容はとても単純に分別できるようなものではなさそうだな、と個人的には考えています。

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