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勘を信じるためには

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勘を信じるためには

不器用。
屁理屈先行型。
そのくせどこかオカルト的な考え。
あ、全部私のことです(笑)

頭で考えるな。
もっと手を動かせ。
下手な考え休むに似たり。
あ、これも私が修行中によく言われたことです(笑)

こんな私でも30年以上この仕事に従事していると、所謂職業的な勘というやつが働くようになります。
「なんか変」とか、「これはいい!」とか、ともかく言語化一般化が出来ないような感触が何かを告げている、と言うやつです。
恐ろしいことにこういった「なんだかよくわからないけれど何かある」といった感触は、大抵“当たっている”わけで、無視するとろくなことがありません。

ならばこれらに全部任せてみれば良さそうなものですが、

・経験がない病理問題は検出しきれるとは限らない
・感度が必ずしも安定していない

などの理由によって、やはり知識や経験による客観的な評価もこれまた無視できません。

ですが大変便利というか、私たちの施術業務においては本質を見抜く力という点では「勘」はとても重宝します。
私の知識や経験がカバーできない領域(つまりほとんど)のことを教えてくれるわけですから、やはり積極的に活用すべきだろうと思います。

ではなぜこれらの勘を信じることが私(だけではないでしょうけど)は苦手なのでしょうか。

今までの知識や経験出来上がった、通常もっとも使う脳内ネットワークは、

・省エネルギー
・他のモジュールが作り出す雑多な発火による内部の混乱/疲弊に左右されず、むしろ押さえ込むように機能する
・結果として脳内の負担が少ない

などの理由によって、快感を生み出そうとも不快感を感じさせようとも、一番「馴染んでいる」回路と言うことになります。
逆に言えば、この回路の外にあるネットワークやモジュールの発火は、もっともなじみのあるネットワーク(=安心感のある思考)からハズレているため、そのたびに落ち着きの無さを生み出すとも言えます。

「ついつい使ってしまう思考」を出しゃばらせすぎないようにするためには、どのような対処をすべきなのでしょうか。

ひとつは「なじみの回路」を使う際に生じる「自分への期待感」を眺めてみることです。
期待感というのは、快感やそれに連なる要求を増大させることがわかっています。
つまり「期待したいのが我々」と言うことになります。
私もここ最近、このことに気がつきました。
そうです、快感や達成感を求めてついつい期待をしていたのです。

まずこれを否定してみました。
なかなか良い・・・のですが、否定し続けるのは多少疲れるので、いつものように眺めるにスイッチしてみたところ、こちらの方が俄然「勘働き」が活発になってきます。
「ここはもう少し」や「ここまで!」という感触が非常に良く伝わってきて、経験との整合性も大変とれるようになるのがわかります。

この時点で「勘」とずいぶん仲良くなった気がしました(笑)

実はこの先もあるのですが、なかなか文章に出来ないので、興味のある方は是非探ってみて下さい。

Mさん、かように勘を信じるというのは私にとってハードルが高いのです。
同じタイプとおぼしき あなたも、慌てずに一つ一つすすめてみて下さい。
納得せずに進むと、結局行き詰まりますから。

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