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努力

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努力

昔私が小学校のあたり、つまり昭和40年代後半から50年くらいにかけて、「飛び出せ青春」とか、そんなような題名のドラマがよくTVで放映されていました。

まだバンカラなんて言葉が生きている時代で、要するに泥臭く生きてゆくことこそが若さなんだ!という、今の人たちが聞いたら「ん?」といいそうな主張がそこかしこで行われていました。

1980年(昭和55年)前後になってくると、「一生懸命なんてダサい(この言葉も私たちの小さい頃にはありませんでした)!」という風潮が広がってゆきました。

理由はいろいろありそうですが、それまで頭ごなしに「努力は尊い」と言われてきたことへの反発、あるいは日本が本格的に豊かになりつつある中で云々、なんてことが大きいのかなと感じております。

経済的に豊かになることはもちろん好ましいことであり、「物質的な豊かさの代わりに心の豊かさを失った」という紋切り型の考えには基本賛同できません。

基本、ということは部分的には賛同するということをもったいぶって言い換えていたりしますが、私「努力」「がんばり」を生きる上で必要な要素であると考えています。

そもそも努力とは何か。

当たり前ですが私たちすべての生き物には「できること」「できないこと」があります。

次に生きるため(これはあらゆる場面での意味を含みますが)に「するべきこと」を求められる場面が(必ず)でてきます。

慣れてしまえばどうってことは無いことでも、最初にそれをするとなるといろいろ工夫が必要だったりします。

「できること」と「するべきこと」の間には最初は溝が存在する、ということですが、これを埋めるべく行う工夫を「努力」と定義して良いかと思います。

一方脳の中には「報酬系」と呼ばれる領域、システムが存在しています。

これについては食欲についてで詳しく書いてあります。

この報酬系は一方で「生きるためのモチベーションを維持する」ために必要なシステムと考えられます。

少し話は飛びますが、私たちはなぜ生きるのでしょうか。

宗教的なところは専門家にお任せするとして、生物の特性から考えるに答えはおそらく「死にたくないから」になると思われます。

死にたくないから食べて眠り、それを安定的に確保するために集団を作り、そこでさらに有利に立てるように皆に認めてもらう・・・・。

さらにはそれらが簡単に瓦解しないようにシステムを順次巨大化し、簡単に死なないような中に身を置くように文明を築く。

身もふたもない言い方ですが生物学的に考えるならたぶんそんなところではないかとみています。

さてでは生きる目的が「死なないため」だとして、それを脳という支配者側からみたとき、阻害要因として最もやっかいな問題とはどんなことでしょうか。

答えは「退屈」です。

もちろんこれは寒さや空腹、外敵による襲撃といった「すぐに死に至るリスク」がある程度克服されている状況下のお話ですが、現代の先進国、特に日本という治安も社会システムも発達した国においては、十分に当てはまる話だと考えます。

正確には「脳という臓器を極限まで肥大化、高度化させてそれを使うことを前提とした生物にとって、報酬系をはじめとした各システムの“適度な興奮”が維持できないという状況は、じつは非常に強い負荷を与え続ける要因」となり得る、となります。

食う寝るが確保できないうちはこれを獲得することに血道をあげます。

つまりこれを獲得することが「喜び=脳の興奮」を呼び起こすのです。

またこれを安定的に確保し、国というレベルまで敷衍させることが、古代からの生物としての悲願であり文明の目標でもありました。

翻ってみるに現代先進国と呼ばれる国々では、程度の差こそあれ、多くの人たちがそれを享受できる状態にあり、いわゆる緊急に生きるための努力がなくても何とかなるという状況を作り出してしまいました。

もちろんこれはすばらしいことなのですが、反面「いったいこれからどうしたらいいの?」というちょっと間抜けともいえる疑問を私たちに植え付ける原因ともなりました。

要するに「脳をどうやって使うべきなの?そしてたとえフル回転させることができても、それをどうやって維持してゆけばいいの?」という、新たな“飢え”に直面することになったわけです。

それまで「努力はすばらしい!」といわれてきたわけです。

そして社会情勢的にそれを怠ると死ぬという選択肢しかなかったのが今までなら、ともあれ働かなくても社会が何とかしてくれる確率が格段に上がってしまったのが現代といえるでしょう。

その状況は「努力しろっていわれてもなあ・・」という今まで経験したことのない方向性の喪失を抱え込むに十分なものです。

つまり「努力」が従来通りの効能を発揮できず、結果に結びつかないことをするのはいやだ、という声を“ある程度”正当化してしまったのです。

ですが、私たちは脳の支配率から考えてここを常ににある一定の効率で使わないと早晩生きるための最低限の行動、捕食と睡眠まで阻害されることになります。

脳という臓器は無理矢理にでも使って興奮を維持させないと生きづらくなるどころか、最終的には生存が困難になる。

そして内部で安定的に陶酔感を伴う興奮を維持させるために必要なのが「達成感」であり、そのプロセスには努力が必ず入り込みます。

別の言い方をすると「努力を必要とするような乗り越えるものがないと人間の頭はうまく回転しないことが圧倒的に多い」となります。

こうなると「努力そのものが大切」というちょっとくさい台詞も、生物学的には意味を持ってくると思いませんか?

少なくとも私は努力、がんばりをそういった意味で「生きるために必須の行為」ととらえています。

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