仏教概論8
仏教概論8
素人の好き勝手な仏教概論を1から7まで書いてきましたが、その過程でわかったことは何だったのか。
改めてまとめてみました。
・釈迦は預言者でも何でも無く普通の人間だが、自我の取り扱いを極めて高いレベルで行えるようになった(歴史上)最初の人だったこと。
・彼はかなり内省的な人間で、それ故にすべてを抱えた上で目標をクリアすることができないと判断してあらゆるものを捨てて修行を選んだこと。
・彼自身は超自然的人格(いわゆる神やそれに類する存在)について存在するともしないとも言及していないこと。
・死後の自我、つまり霊魂や輪廻転生といった当時インドを事実上支配していた前提の存在についても同様であったこと。
・それ故に日本ではおなじみの先祖供養等についても初期仏教では一切書かれていない。
・当然呪術的なものにも一切関与していなかった。
・上記4つをはじめとして、現実に確認できないことは「不可知」として無記(何も語らない)を貫いたこと。
・あくまで個人の内部に巣くう苦しさを滅するための専門家であることしか標榜していなかったこと。
・そのためには執着の元となり得るもの(財産、情愛、地位etc...)はすべて放棄する必要があると彼は説いたこと。
・しかし「楽しみ」がなければモチベーションを維持できず、それを自身内部に求めよと釈迦が言っていること。
・彼の教えに最も近いとされる初期仏教は、そんな彼が覚りに至るためにたどった道筋を論理的に整理し直してできた修身マニュアルだったこと。
・覚りとは脳内の化学物質の状態に還元して考えることができる可能性が高いこと。
・ただ覚りに至る道は世間一般の常識や集団生活におけるノウハウとはきわめて相性が悪いこと。
・その理由としてはあくまで個人の苦を滅するためのアプローチであることと、それを達成するためには一切の妥協が許されなかったからだと考えられる。
・出家し修行を行うに当たり、一切の商行為や生産行為は心の揺れにつながるとし、それを固く禁じられていたこと。
・結果として誰かから生活の糧をもらわずには生きていられなかったという、構造的論理的に社会的矛盾を抱えていたこと。
・釈迦の死後、サンガ内では思想方向性の分裂が起き、現代仏教の多様性につながる様々な変容がみられたこと。
・その後ヒンドゥー教に飲み込まれその中の神の一柱として祭り上げられたこと。
・現在日本で一般的な仏教は、初期仏教とは違う面が多いこと。
などがわかってきました。
私のことをご存じの方は意外に思われるかも知れませんが、結構内側に向かって考え込むタイプである私は、本を読み進めてゆくたび釈迦の思想に対して強い共感を覚えるようになりました。
もちろんすべてを捨て糞僧衣を着て暮らすことは今のところ無理ですが、積み上げた勘違いとその結果である肥大した自我の影響こそが苦の最大要因であり、これをコントロールすることは原理的に十分可能だとわかっただけでも勉強してよかったと考えます。
ところで私は治良屋という、ある種のセラピストといえる立場にあり、事実そのようなことを生業にしています。
これがここまで書いてきた釈迦の思想とどう関連するのかを考えてみました。
現時点での答えは「とりあえずは直接関係はない」です。
わたしは仏教概論のはじめの方で「治良には信仰のもたらす心理状態が絶対に必要」とか何とか書いています。
それはどうなったのか。
正しくは「全く無関係ではないが、基本的に初期仏教は信仰心をもたらさないどころかすべてを疑ってかかることがその根本なのでつながりを矛盾無く説明することはできない」という結論に至っています。
内部のイメージとしては納得ゆくものになっていますが、それをうまく出力できないのは単に語彙や教養の問題かなと思います。
どちらかというと釈迦死後に成立した大乗仏教と呼ばれる「空」を中核とする思想体系の方が治良用心理状態へのとっかかりになりやすく説明もしやすいと考えていますがそれはまた別の稿で書いています。
ただどちらが優れているという話ではありません。
どちらが現時点で私にとって、そして治良を行うに当たってより必要性あるいは説明性が高いと考えられるのか、というお話です。
釈迦の好んでする説教に「筏の例え」があったそうです。
概要としては「私(釈迦)の説くことは河を渡るための筏のようなものだ。向こう岸に着いた(覚った)ならうち捨ててゆくべきだ」というもので、教えを守ることに拘泥しがちな弟子たちをことあるごとに戒めたそうです。
穏やかでそれでいて楽しく(あるいは苦しみがなく)、その状態を外部の刺激なしで無理なく自身の中で継続し完結できるようにすること。
それが釈迦の求めたものであり、そのための思索三昧の日々だったと私は考えます。
私にとっても自分の人生や治良をより充実したものにするためのツールでしかない。
善悪、正誤といったこちらの都合で決めたルールや価値判断基準のさらに向こう岸にあるものを示してくれる。
それが私にとっての釈迦の思想であり、仏教の思想と言うことになります。