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仏教概論6

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仏教概論6

素人のくせに読みかじりを書くな!

と聞こえてきそうな気がしますが、私自身の興味が尽きないので「6」です。

さて釈迦の残した言葉というか教えに「一切皆苦」というものがあります。

ATOKで一発変換されるくらい有名な言葉のようですが、「生きると言うことは本質的には苦しみなんだよ」と言うことらしいのです。

言わんとしていることはわかる様な気もしますが、何とも救いがないというかお釈迦様が言うならそういうものなのかも知れないけどため息出るなあ、といいたくなるような文言です。

仏教つまり釈迦の教えの特徴は「残酷なまでに現実的でその論理には隙がなさ過ぎる」ではないかと個人的には思っています。

有無を言わさず信じる必要のあるところ(=神話部分)はその核心にほとんど無く、あくまで理知的でかつ抜群の論理性によって構成されている話が大半を占めています。

後付け的に超自然的な描写も挿入されているようですが、その基本骨格は人という生き物の本質に迫る、臨床家としても興味深い話が多いように思います。

逆に言うとあまりに理路整然としていて、しかもそれが現実を極限まで観察した結果のものなので、口を差し挟む余地がほとんど無く、ある意味夢も希望もないといえます。

どこかに少しくらい「もしかしたらこんなことも期待できるかも」という部分がほしいのが凡人の正直な感想といえるのですが。

釈迦の主張に最も近いと考えられているテキストには、神秘も奇跡も釈迦の時代には当たり前だった生まれ変わりさえも含まれておらず、ただただ苦しい生を穏やかに過ごすためのマニュアルめいたものがあるだけです。

仏教とは修身マニュアルであると以前書きましたが、釈迦がその生涯を閉じるときに言い残した言葉「自灯明、法灯明」が表すように、基本的には原理原則を綴ったもので、そこに至るプロセスは百人百様であるからしっかり考えなさい、といった指針が記されてあります。

神仏の力による一発逆転救済はもとより、これさえ行えば死ぬまでずっと安楽でいられるとか、死んだあとも天国に行けるとかと言った安心させるような話は少なくとも原始仏教と呼ばれる初期仏教にはみられないようです。

例え覚りによって涅槃にたどり着いても、一生訓練鍛錬をし続けなければあっという間に逆戻りもあるよ、だからぬるい考えは捨ててしっかり生きてゆきなさい。

端的にはこういったコンセプトだったりします。

では一切が苦であるという発想はいったいどのようなロジックに裏付けられているのでしょうか。
 
常人よりもはるかに頭のよかったはずの彼にして出家をしなければいけないほどの悩みを抱えていたのは事実のようですが、その結果一切の煩悩を滅し、苦諦から離れ涅槃寂静の境地に達したわけです。

覚れば苦は滅するわけですから、苦が残っていると言うことは覚っていない、という公式が成り立ちます。

覚るというのは「物事の一切が明確に認識できる」と定義することができそうなので、ひとまずここではそのようにしてみますが、だとすれば「苦=物事がはっきり認識できていない状態」と言うことにもなります。

以前「十二縁起」というものを書き出してみました。

苦の連鎖を記したものですが、その始まりは「無明」でした。

これは「物事の全体が正しく見えていない状態」を指すものでした。

問題がここかは始まり、老死という極限の悩みに達すると釈迦は説いています。

では最初の“無明”をもう少し詳しく考えてみます。

これは一言で言うなら「物事をありのままにとらえていない」となります。

では何故ありのままの状態を見据えることができないのでしょう。

これには私たちの脳の機能、特性が関わってきます。

人間の一般的な傾向として“ある瞬間の状況を時間や空間から切り取って分析、意味づけをして納得する”という習性があります。

いわばある状況を写真や文字にしたものを現実として認識し取り入れることに長けているわけです。

これは私たち人間が他に比べて脆弱な体で生き残ってゆくために必要な特性でもあり、集団で捕食、生活することを可能にした、最大の武器ともいえるものです。

ただしその延長上にあるのは“それがいつまでもある=実体を持つ”と考えがちなことで、時間や状況が促す変化を完全に把握することが得意ではなくなってしまったともいえるわけです。

状況を解析して意味を見いだし、それが自分にとって損か得かを見分けるために発達してきた脳の、いわば負の側面と言うことができます。

一方現実のもの、事象というのは空間や時間の流れの中で変化しています。

これは比喩的な物言いではなく、実際にそのようになっています。

釈迦はこれを「諸行無常」と言っています。

私たちがその五感で感じることができ、安定的に存在していると考えやすい“事象”も、実は一瞬たりとも同じ状態ではなく、その結果生じる自我にも実は実体はないとも釈迦は説いています。

あるのは変化を感じ取る最小限の基本要素と、その間に存在する法則のみとも。

私たち、いや生き物すべては自身に生じた感覚と思考に振り回されやすい傾向がありますが、特に人間はその強力な頭脳の支配が半端ではなく、ほとんど寄生獣のように有無を言わさず首から下を従えていると言っても過言ではありません。

そんな強権を発している脳はまた上記のような性質を助長する傾向が強くあります。

これは集団生活が高度にシステム化されるほど顕著になる性質のように見受けられます。

その結果度のようなことが起きるのか。

現実を感じる>認識>思考が発生>行動という一般的なプロセスの場合、簡単に言えば常に過去の状態を基準に判断し、それ故に変化に対応しきれなくなります。

またその途中で生じた思考も過去のものであり、そこにフォーカスしすぎると現実との乖離はどんどん大きくなります。

それはまた自分の中で実体のないものに実体を持たせようとする、いわば的外れな方向へ脳味噌を引っ張ってゆくことにもなります。

実体はないのに実体があると信じ込んで探し、無いことに不安になったり時には絶望したりする。

これが「一切皆苦」の背景で、認識のずれが現状機能の一部といえる私たちでは必ずついて回るものです。

これを払拭するためにひたすら考え続け、それを身のうちとするための「八正道」であり、実行環境を整えるための出家というわけです。

しかしながらそう簡単に「諸行無常 諸法無我」が納得できるならば苦労はないわけで、とりあえずは「人間というのはそういう性質が備わっている」と理解するしかありませんが。

求道的姿勢もずいぶんと大変だなと私などは思うのですが、生きたまま苦を可能な限り滅しようとするならそれが最も合理的である、ということなのでしょう。

疑似モードとはいえ、これを維持するのはなかなか大変だと言わざるを得ないと改めて思いました。

覚りは遠いようです(笑)。

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