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仏教概論38

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仏教概論38

「先生、自分らしく生きるためにはどうしたらいいですか?」
例によってそんな直接治良とは関連のなさそうな質問を受けたわけですが、

「自分らしくなんて考えなくていいから」

と答えておきました。

そんなに「自分」をわかっている人なんていませんし、歳をとっても自分の本質なんてそんなに簡単に断定できるものでないと言うことをまずは伝えたかった(還暦が見えてきても迷うんだよ(笑)。
もっと言えば「自分」なんてどんどん変化します。
そんな変化のたびにいちいちそれを表出しようと自己実現にやっきになり、それが出来なければ生きている意味が無いと決めつける。
迷うのは愚か者のすることで、目標に向かい達成してこそ人生だ云々・・・。
成長せねば!と並んでもはや現代における代表的な呪いのひとつと言えるでしょう。

確かに自己実現というか目標達成ってとても気持ちがいいですし生き物としての強さは向上するのですが(ドーパミンでまくり)、それが出来ない目指せないからと言ってだめだと言うことはない。
そもそも自分というものが最初っからある、と言うのは勘違いに過ぎません。
いや、最初から最後まで実体などなくその時々にかたちを変えて立ち現れるあやふやな概念だと思っていた方がいい。
私は特に若い人たちにはそのように伝えたい。

またしつこく脳の話になります。
生存確率を上げる上でもっとも効率的な方法を探る。
脳の大切な仕事のひとつですが、当たり前のように判断に迷いや間違いは生じます。
その大きな原因のひとつは「脳は思いこみ無しでは何も予想できない」というやっかいな性質があるからです。

危険を回避して生きる上で必要なものを取り込む。
生きると言うことを極論すればそんな風に言い表せますが、単細胞生物においてすら反射や簡単な学習を用いてこの確率を上げる方向へ向かいます。
神経系はシステム全体を同調させ、脳という臓器はこれらを統合し、複雑なイメージからなる判断をより高速かつ確度の高いものとするために存在していると言えるでしょう。

反射は各器官や組織で起こり、その実行データは中枢に送られ脳上でルールに従ってマッピングされていきます。
私たちの身体イメージはまずこのマップがベースになり、所定エリアで「危険か好機か」の識別とその程度を判断され、「怖い」「近寄りたい」などの単純なイメージが生成されます。
この単純なイメージを「情動」と言い、これに内部イメージのストーリー性がくっついたものを「感情」と言います。
例えばですが、ある特定の臭いを嗅いだときそれが自分にとって有害なものであると体が判断すれば、それは扁桃体を経由して「危険である」と警報を鳴らします(情動)。
そして過去にも同じにおいを嗅いだときに体調を崩した経験があれば、そのときの情景と感覚がありありとよみがえり特定の情景に対しての好き嫌いの感覚がよみがえるはずです(感情)。
入力されたデータを自分の何かと結びつけて理解する。
脳の基本性質にして記憶化の大原則ですが、当然それに当たりデータ群全体を切ったり張ったりしながら自分に馴染むように成形していく。
それをもっともよく使う情報の塊に編入させる、というか編入させられるように加工して自分にとって今目の前にあるモノやコトが意味のあるものかどうかを判断するベースにする。
これが自我であり、別名「思いこみでできた情報処理場」と言います。

「自分らしく」あるためにはこの自我から生じた感情に従うべきだ。
何となく最近の風潮はそんな感じで誘導されているように私には思えます。
正確に書くと「感情こそが自分自身或いはその発露であり、これに従うことが出来なやつは人生の負け組である」みたいな風潮が幅をきかせている、ように思えるのです。

若い人に言いたい。
ちょっと待て!落ち着け、と。
脳側からみれば「自分」というのは単なる反応のひとつであり、体の安全はともかく脳内に発生したそれはそう固執したりしなくちゃならないなんてコトはないもの、です。

以下は一部自分の書いたものの流用になりますが、脳の挙動から「自分」なるものを考えてみます。

自分という感覚に必須と思われている“意識”は、各器官が上げてきたデータ処理が長時間、といっても0.5秒以上、になると生じる、ある種のオーバーロードの結果生じる注意集中現象だと私はみています(処理反応が0.5秒以下だと意識は生じない)。
このような反射だけでは処理できない状況に対処するため、格納されている過去の成功・失敗イメージをつなぎ合わせ、現時点での状況に合致するストーリーを作り上げ脳自身内部の整合性をとる。
このように内部ストーリーに合致するよう状況に対応するイメージの作成が思考そのものであり、この時生じている意識ともども完全な後追い反応で本質的には主導権はないというのが今現在の私の考えです。

思考実験ですが感覚器や器官組織から入力されたデータ処理がすべて完全に0.5秒以未満で終わるとします。
普段私たちは膨大な処理のほとんどを“意識”することはないように、上記のような状況では何かに注意を向けることがない、イコール何かを感じることがないということになります(あくまで極端な理想状態を想定していますが)。
こうして「意識抜きの自分」を想定してみるとよくわかりますが、危険と好機を反射だけで判断し、回避或いは取り込むと考えられます。
当然処理が遅れたときにしか生じない思考という、イメージの連鎖によるストーリー作りもなくなるでしょう。

システムの複雑さ、膨大さを除けば単細胞生物とそう変わらない。
超極論ですがそうなるかなあと思っています。

各器官組織が出す信号に対する単純なイメージ、恐れや喜びなど、を情動と呼ぶならば、処理が0.5秒以上続き過去情報というストーリー性を付与したものが感情であり、判断スピードの向上、脳内リソースの節約などのために生じた反応である。
これを含めた「処理がすぐに終わらない結果生じた反応」そのものを私たちは身体反応に重ね合わせ長時間「実感」し続けます。

「自分」の正体ってこれかな。
つまり「自分らしく」ってそのとき脳が作り出すイメージ群に左右される思いこみにそうこと、みたいなものだと考えればだいたい当たっています。

釈迦の時代、彼のいた地域ではバラモン教(現在のヒンディー教の先祖)が支配的でした。
ヨーロッパ起源の白人種が流れ着き、現地にあった転生思想を利用して「俺ら祭祀を司るものに尽くさねーと来世はひどい目に遭うよ?」的な思想をベースに支配を拡げていったらしいです。
その中隔部分の考えのひとつが「アートマン」という発想で、簡単に書くと「どこかにある真の自我」であり、それは宇宙そのものであるみたいな、まあよくある分かりやすい思想だったわけです。

釈迦はアナーキーな青年だった頃から「それって違うんじゃねーの?」なんて疑問を持っていたりしましたが、長じて悟りなんか開いてしまったあとはさらに過激になります。

「真の自我?馬鹿も休み休み言え。」
「そもそも自我なんてねーよ。お前が自我とか自分だと思っているのはお前の心なんてもの(刺激に応じて自動的に反応するシステムと彼は言う)が作り出した幻みてーなものだから。」
「来世も前世も自我の構造を知ってしまった自分にはありえねーから」
「輪廻転生なんて罰ゲームからはいち抜けしたんでよろしく」

なんてことを言い出して当時の社会支配層からは相当疎まれたようです。
でもこれに感じ入る人間も多くいたらしく、脱バラモンからの釈迦弟子になる人が後を絶ちませんでした。
まあ論理的な整合性という点では(今もなお)飛び抜けた考えですし、そもそも神話みたいな部分がほぼ無いというのが刺さる人には刺さる。
そんなこともあったのでしょう。

ともかく宗教臭さがほぼゼロで哲学プラス実践方法をセットにした釈迦の教えは瞬く間に周囲の地域を席巻していきます。
ドンドコ大きくなる集団でしたが釈迦は厳しいルールとマナー、基本原理を口伝しただけで基本放置でした。
犀の角のようにただ独り歩め
なんて言葉もあるくらい、基本他人とのやりとりよりも瞑想を重視していて、内省による自我やら自分やらの「分解」を推奨していました。

翻って現代日本。
大乗仏教は釈迦の主張の解釈を拡大し続け、ひとつの在り方を確立しています。
良い悪いではなく「そうありたい」という方向性の上にある答え、という感じでしょうか。
結果として自我の分解は一部宗派で方法論が残されていますが、原則として自我を残したままの処世方法に力点が置かれている印象です。
なので現代日本においては基本「アートマン思考」というか、どこかに本当の自分がいて今の自分はそれを見つけられないでいる。そんな考えが根付いているように思えます。
それはそれでありですが・・・・

体はあるしそれによって他とは厳然と区別されているし、その体は死から遠ざかろうとするから脳もそれに従うけれど、より強い刺激があればそっちへ引っ張られておかしな方へも突進してしまう。
そんなやっかいな反応をする脳が作り出す「自分」という感覚はあくまで感覚であって、どこかに実体があるわけではありません。
ということを「自分らしく生きなければ教」信者の方たちには理解して欲しいなんて思ったりもします。

まとめれば

・自分なんていつも変化している
・そもそも自分なんて感覚は脳内反応と体の感覚が結びついて実感できているもので、それ以上でもそれ以下でもない
・それ以前に「自分らしく」生きられないからってどうと言うものでは無いよ、人生は。
・というかそうなる場面の方が圧倒的に多いと思うな、おじさんは。

いろんな欲求を満たしながら生きていられることは、それはそれで楽しそうだしいいなあとは思います。
しかしそれらが満たされないからと言って良いかと悪いとかでありません。
誤解を恐れずに言えば現代人は生き物がただ生きて死んでいくだけのプロセスに過剰な意味づけをしている。
「自分らしくという呪い」の正体はそんなものでしょう。

Yさん、こうであらねば的な思考は一端休ませて、あなたの体の要求をじっくり分析してみて下さい。
重要度で言えば今のあなたにとってはそちらの方が上でしょう。
あなたならそれが出来ると私は思いますよ。

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