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仏教概論37

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仏教概論37

幸せってなんだっけ?
ポン酢醤油のある家さ、と明石家さんまが言ったのはもう30年以上前のお話(若い方はご存じない?)。

では実践哲学者で元祖ニートシステム構築に成功した釈迦という人はこれをどう考えていたのでしょうか。

この歴史に名を残す哲学者はとにもかくにも「俺が生きづらいからどうにかなるように考えなくちゃしなくちゃ」という強迫観念にも近い思いを持ってあれこれやっていた人でした。
そもそもなんでこんなに悩まなくてはいけないのか?
ここを徹底的に分解して「あー、始まりは認識の齟齬か」という考えに至ったわけです。
自分を悩ませている原因に行き当たり、これを排除することに(多分)成功した当時唯一の人だったようです。

さて、ここで重要なのは「彼は幸せを求めてあれこれ始めたのではない」と言うことでしょうか。
とても落ち着かない、いやーな気分に苛まれ、そこから脱出するためにあちこち迷惑をかけながらも目覚めた状態に至り、結果として満たされ幸せな気分でおそらくはいられたわけです。
プラスを求めたわけではなく、マイナスの消去を考えていたのです。

つまり初期仏教的には「幸せなんてないよ。あるとすれば不幸と不幸じゃない状態だけだ」となります。
不幸がベースで「そうではない時間を幸せとみなせ」と言っているのです。
身も蓋もありませんが、ざっくり言えばそうなるかな、と。

これってどうなのでしょうか。

まず「不幸」ってどう考えればいいの?というお話

何しろ人生のベース(笑)ですから忽せには出来ないお話です。
脳の挙動から考えてみます。

脳内処理の究極は「考えずに来た球を打つ」です。
入力にいちいち意味づけしないで必要な処理を行い出力に変換する。
このサイクルが最小限のエネルギーで行われていることがもっとも好ましいと言えます。
いちいち注意集中(意識)現象がおきず、ただただ最高効率で反応しているわけです。
なれた行動が無意識に行われるように、出来れば脳は常にこういう状態にありたいのです。
この心理状態には心配や不安はほぼ存在せず、只管「今」に対応しているだけです。

蛇足(本当は本筋にしたい)ですが、治良を含め様々な徒手矯正が目指すのはここで、可能な限り処理の効率が上がるよう「システムの安定を邪魔している不必要な緊張を緩める」わけです。

しかしながら現実は「来た球を過去のデータと照らし合わせ、予想を立て、自分のバットの軌道に合致するはずだと決めつけ打ち返そうと小細工をする」です。
これは私たちの発達肥大した脳の基本性質みたいなモノで、事前に用意してある脳内世界(情報の塊)にミートするよう外部入力を選別、加工しながら瞬間瞬間をしのぐというクセによるものです。
その都度意識が起ち上がり、様々な記憶が連続的にリンクされ、最大の情報塊に沿うように修正がかけられます。
当然入力に含まれているであろうデータや情報は一定の基準で切り捨てられます。
この際情報化されないデータは野良データとして情報の塊に横やりを入れてきます。
これらによって好ましくない発火が起き、自動的に他の記憶との照合が行われ、この負担によるエネルギー消費量が上昇します。
私はこれを「脳内ノイズ」と勝手に呼んでいます。
これが多いほど安定した状態から離れていきます。
この私たちの多くが常におかれている状況は、先の不安やしてきたコトへの後悔などがつきまとい、判断力をさらに低下させるようになります。
認識と現実の乖離が拡がるのも仕方ありません。

これに始まる一連のサイクルがまた認識の齟齬を加速/固定させる。
釈迦はこれを十二縁起と呼びました。

ただ問題なのはこのやっかいな状態をとることの方が私たちは圧倒的に多く、一生涯原則的にこれから逃れられないということです。

通常これらの「デフォルト不幸」を内部で払拭するため、ドーパミンやら何やら主にモノアミン系の伝達物質が出るような状況を競って取り入れようとします。
「楽しいことでしんどさを塗りつぶす」というわけです。
美味しいものを食べたり、お金を持って将来の不安を減らしたり、健康に気を遣って病気の恐怖から逃れようとしたり。
或いはゴニョゴニョなコトをして脳を刺激したりなど。

ひとまず「擬似的に不幸から逃れている状況」をつくって目をそらす。
幸せになるための方法はこのレベルで語られるので何が何だかわからない、或いはすぐに効果を感じられなくなるのです(少なくとも私はそうです)。

不幸からの永久的な脱出を目標にしていた釈迦からすると「おまえたちそんなことばっかりしているといつまでも(脳が作り出す)心の安定は得られないよ。それどころか今やっている“楽しいこと”が執着という面倒い状態を作るからすぐ捨てなさい」としか思えないわけです。
現代科学的な視点から見ると脳はできるだけ面倒な、つまりエネルギーを使うようなことからは離れたいのです。
いつも同じような状態であることを望み、出来ればすべて意識を発生させずに済ませてしまいたいというのが本音です。

しかし同時に快楽反応には飛びつく性質もあり、一端それらを経験してしまうと内部でこれを促進する反応が起ち上がります。
これは通常の処理反応を圧倒しますので、脳内優先順位「1」になりやすいものでもあります。
脳に作用する化学物質(アルコール他)だったり、ギャンブルだったり、恋愛などもこれらを惹起しやすいモノとして昔から戒められていました。

初期仏教としては「一過性の快楽でデフォルト不幸状態をごまかしているとエラい目に遭うよ」的な話をして、ひとつのイメージに居着く(これを執着と言います)ことを戒めます。
そこが処理の主戦場、つまり主体が出来上がることを防ぐのが仏陀の教えのひとつだからです。
正確には主体という反応自体はそうそう消せないけれど、ここで起きる認識の齟齬を最小限にして、さらにその先へ行きたいわけです。

というわけで私の理解の範囲で言えば徹頭徹尾「不幸から始まる人生の脱出方法」である初期仏教は「幸せをもたらす魔法の方法なんてない」と主張しています。
不幸とたまに非不幸だけがある。
ネガティブこの上ありませんが、私個人は強く納得しています。

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