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仏教概論34

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仏教概論34

「仏教って無我になるためのものでしょ?」

先日知人との会話の中で上のような質問(?)をされました。
我(≒エゴ)をなくする。
そんな意図での発言らしかったのですが、これは初期仏教で釈迦が主張したこととは少し違っています。

まず釈迦は

・我(自己)なんて最初っからないよ(超意訳)
・あると思ってしまうのが私たちの基本的な性質だけどね(超意訳)

としています。

ただ釈迦は

「法と自己をよりどころとせよ(法灯明自灯明)」

なんてことも言っています。

法(仏陀たる釈迦の教え)はともかく我(自己)ってあるのかないのかどっちじゃい!と突っ込みたくなりますから少し解説を。

この場合の「自己」とは、瞬間瞬間の認知の集合がもたらす、いわば一過性の認識パターンとでもみなすべき反応を指しています。
そして本来これは常に変化をしていますが、最もインパクトのある瞬間パターンを強く認識し、しばらくはそれをベースに記憶を蓄積することを脳は好んで行います。
つまり脳は「変わらぬ自分がいるとしたがる」横着な(正確には認識のオーバーフローを防ごうとする)臓器だというわけです。

生き物、特に私たち人間は常に生き残りをかけて有利な状況を意識的にも無意識レベルでも模索している。
私がここ10年ほど一貫して主張していることですが、この出所がよくわからない圧力は脳に「今目の前にある状況がどういう意味を持つのか」を常時検索させるよう仕向けます。
そして放置しておくと認識した対象にリンクする記憶を次々を呼び出して、対象が持つ本来の性質とはかけ離れたイメージを作り出してゆきます。
この「認識している」という感覚を「クオリア」といいます。
別名を意識的体験といい、「見ている、聞いている」などの認識反応を指しています。
これはその鮮烈さゆえに強く記憶化(≒意識化)され、脳の中で常用化されるサーキットを構築してゆきます。
これは逆に言えば強く認識できない状況を意識化できないということでもあり、自分にとってわかりやすいこと以外は切り捨ててしまう反応を加速させます。

この「なんだかよくわからないイメージを作る」のは、いわば私たち(脳)の癖であり、入力された刺激によってより強化される傾向があります。
その挙句が自分のフィルターを通してしか外部を認識できなくなり、現実との乖離やありもしない状況を作り出しては判断が右往左往することになります。
これを釈迦は「無明」と名付けました。

流動しているものなのに、常在無変の自分がいると感じる。
その瞬間、例えば体調や周囲のわずかな変動によってさえ感じ方は違ってくるのに、同じものとして内部処理を強引に行おうとする。
ぜーんぶ心(=脳機能)がそういう風にしたがる、せざるを得なくてしてしまった結果なのです。
つまりは「自分だと思って、それが外界を感じ、感想を持つ」という極めて日常的な実感を伴った経験が実は単なる「思い込み」でしかない。
釈迦はそのように言うのです。

だから「我をなくする」のではない。
我なんて最初っからあると思い込んでいるだけの話だ、となります。

最近、興味を少しだけ持って勉強している大乗仏教(≒今周囲にある仏教)は、ここのところが違っているようで、今ある「我」をどうするか、あるいは持ったまま生きるためにどう考えるか、という発想がその原点(あるいはその近く)にあります。
これはこれで間違いではなく、仏教という思想のいちバリエーションと考えることができます。
そもそも仏(仏陀)教(え)は

「私は放っておけば増長するばかりの心の癖を排除することに成功した。このまま死んじゃってもいいんだけど、その方法は教えておくよ。そして修行三昧できるようなシステムも作るから、あとはしっかりやりなさい」

というもので、ある種の哲学であり修身法であったというが私の考えです。
基本的に信じるモノ、コト、神話部分が極端に少なく、今ある心の問題についてのソリューションだけを提供してきたわけですが、時代が下ればあるいは解釈が違えば方法論も変化します。

長らく私たちそのものと考えられてきた「心という現象」は、2500年も前に釈迦が主張したように「入力と出力によって構成される反応システム」そのものであり、私たちを私たちたらしめている感情も実はそのサブシステムとして機能しているだけのものである。
最新の科学は脳の高度な観察と操作を可能にしたときから、上記のことを証明し続けてきました。
当然「自己」という当たり前に持っている感覚も、脳の反応に依存していることが分かってきています。
それに対する反論は、それこそ感情的なものを除けば出ていないように思えます。

夢も希望もないような話ですが、私はやはりそのように考えます。
同時にこの”現象”がどこまでの広がりを持ち、かつどのような影響を相互に与えうるのかについては、実用上の有用性はともかくまだよく理解のできないところがあります。

私という「主体」はどこにあるのか。
そもそもそんなものは本当にあるのか。
あるとしたらなぜこんな面倒な仕様になっているのか。

納得できるのはずいぶん先になりそうです(ため息)。

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