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仏教概論28

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仏教概論28

前稿仏教概論27で「大乗仏教にも興味が出たかも」などと書きました。

初期仏教、原始仏教と呼ばれる釈迦の主張は「あんたらみーんな物事を歪んだかたちでとらえているよ。だもんだから判断がつかなくて悩んだり迷ったりしているわけ。ここで『あなたは~すべき』と言ってみたところで役には立たんよ。そもそも何が問題なのかもわかっていないからね。だからそこんところをまず教えてあげよう。でその解決法だが結構シンプル。シンプルだからと言って達成が簡単とは限らないけどね。というか反社会的でさえある方法をとるから心するように」と言ったものでした。

仏陀たる釈迦もそうですが、基本的に当時の修行僧、出家者になるには健康でなければ難しいものでした。
理想を言うと金銭などにもあまり興味が無く、家族など大切と思える人たちにも執着の薄い方がより好ましかったようです。
釈迦は元々王子様で、金銭などに苦労した経験も執着も皆無。
その上自分の悩みをなんとかすることにしか興味が無かったので、家族もあっさり捨て去りました。

その後身体的にも“あまり”心配の無かった釈迦は、苦行仲間と無茶を繰り返します。
「あ、でもこんなことしていてもだめだな」と見切りをつけ、35歳で「わかったよ」となります。

そんな釈迦は「ヒントはやるから何が問題なのかよーく考えて考えて考え抜きなさい」と、答えではなく考えの方向性を弟子たちに示しました。
でそのための生活の仕方や、それを実現させるための組織、その運営方法を制定して、弟子たちと共に修行三昧に明け暮れます。

そんな彼も80歳を過ぎ、布教先でキノコにあたって弱点である腸の弱さから他界しました。
生前、文章にして残すことをしなかったため、死後弟子たちは口伝によってえた教えを元に修行を続けました。

時は下って数百年。
「誰も覚れねーじゃん」と言ったかどうかはわかりませんが、教えが形骸化しつつあったようで、釈迦のいう「何が問題か考えることが重要」という発想は薄れ、覚りに至るための「回答」が重要視される傾向が出ていました。
しかし一方で「あの人は超人だから自分の問題をとことん突き詰めたけど、我々凡人はちょっと工夫しなけりゃ無理なんじゃね?」という考えが提出され、だったら問題によって邪魔されているルートの新たな開拓をしようではないかと考える人が出てきました。
仏教中興の祖と呼ばれる龍樹などはその典型で、主体も実体もないから!というラディカルな発想をまとめ上げ、中観派という一大流派を作り上げました。

主体も実体もあるけどそれに惑わされるんじゃないよ、君たち。
そういった釈迦の主張は実は簡単に理解できるものでは無く、体感はもっと難しいものでした。
なのでいろいろな後輩達が色々考えを巡らせて「仏教の凡人仕様」として作り上げたのが現在の大乗仏教である。
私はそのように(今のところ)考えています。

同時にこの「釈迦ほどではないけれどやはり頭のよい人間達が知性を全開にして考え抜いた方法」は、あまりによく出来ているために「じゃああんまり考えずにただついて行けばいいんだな」という発想をみんなにさせるようになりました。
実際「ただ念仏唱えときゃOK」とか「そのままで仏だから」などの一見イージーな、しかしその背後には仏教のエッセンスが練り込まれたコンセプト、フレーズは安易な方向性やフォロワーを作り出し、いま私たちが感じている「葬式の時にしか役に立たねーだろ?」というイメージを定着させるようなものとなってしまいました。

ごちゃごちゃ考えてないで来た球ぶったたきゃいいんだよ。
ある強打者の発言(だったと思うけど違うかも)ですが、これをこのまままねてだめになった人間の方が圧倒的に多いような気がするのは私だけでしょうか(笑)
確かに真理ですが、字面通りにマネできて成功する人はほとんどいないでしょう。
大乗仏教の陥穽はここに在ります。
仏教は本来「頭がよく、知性があって健康で、かつ自分にしか興味のない人」に向いている哲学、修身法であり、決して万人向けの救済を謳ったものではありませんでした。
苦の原因、その解決法、そしてそれを実現するためのシステムまでがセットになって語られ、実践されてきたのが釈迦の時代でした。
その後ややスペックダウンしながらも「こうしておけばとりあえず(今までよりは)OK」という方法が、膨大な思索の末に提供されるようになりました。

惑わされる自分を徹底的に微分して原因を究明した釈迦。
惑わされる自分を相対化して意識現象を分解し、それを当たり前としようとした釈迦の後輩達。

直観的にはやはり釈迦の方が優れた方法だと思うものの、現実的には大乗仏教的な方法をとらざるをえない自分。
脳(=意識)による判断の優先を下げるために、長い間練られてきた凡人用の方法はやはり使いやすいと思います。

体(無意識領域)が決め、意識がそれに追従する。
意識の出しゃばりを最小限にすることで「妥当な状況判断」を臨床に適用させる。
仏教の勉強はまだ始まったばかりですが、方向性はほぼ決まりつつあります。
とても楽しみです。

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