仏教概論26
仏教概論26
覚悟を決める。
昔何かの本の中でそんな台詞を読んだ記憶があります。
いや、日常的によく使う台詞なのかも知れません。
仏教的に言えば「迷いの人生からの脱出」となるでしょうか。
先日治良をしながらそんな話をクライアントの方としていました。
で、お約束ですが「覚悟ってなんですか?」と問われました。
ハテそういえば正確な意味ってなんだろうと、色々知らない自分に改めてびっくりです。
仏教の目標は「自分と自分を取り巻く世界を正しく把握し、心の揺れを必要最小限にして悩む必要がないようにすること」です。
私たちの苦の原因は認識の歪み。
現代風に言えばそうなります。
脳の癖でゆがんだ捉え方をして、そのゆがんだ認識で組み立てられた脳内世界が「現実って思い通りにならない!」と愚痴っている。
いってしまえば私たちは死ぬまでそんな思いから抜け出せず、楽しい思いも苦しい思いも最終的には「苦」となってしまうというのが、釈迦の基本的な主張の一つでした。
苦しいはずの思いも、なじんでしまえばその人の世界を作る重要なパーツとなり、なかなか手放すことが出来ない。
このように死にたくないと言う本能に押されて始まったはずの”私たち物語”は、いつの間にか“死んでもいいから自分の世界を守る”にすり替えられてゆきます。
正確には「死から遠ざかる」という基本的な方向性と、「脳内世界のつじつまを合わせる」が同じ土俵に登りせめぎ合うことで、苦しみは増してゆきます。
こっちへゆけば死ぬかも知れないけれど、私はそちらを選ぶ。
生物の大原則に反する思考ですが、時として(特に人間は)そのような行動に出ることがあります。
そのくらい脳内世界は私たちを虜にするわけですが、ここから一歩踏み出してその枠組みを冷静にみてみる。
容易ではありませんが、覚りへのステップの一つとされています。
しかし日常生活の中でこれを行おうと思うと、体の動きがついて回る分、脳の癖から抜け出すのが一層大変になります。
動きにエネルギーをとられるので、たいていの場合は「まあいいか」と、慣れた動きをしてしまいます。
この「心や体が慣れ親しんだ反応でやり過ごす」ことと決別することを「覚悟を決める」と言います。
自分の人生の新たなフェーズに移行したいとき、今までと同じ考えや行動ではどうにもならないから色々変える必要がある。
ただそれはいい大人になってしまえば誰も強制も矯正もしてくれません。
なので自分から面倒に飛び込んでゆく腹づもりが必要で、今までの「これをしておけば脳が安定する」行動や考え方と自ら決別しなければなりません。
話は少しそれますが、徒弟制度や修行というのは、こういった「今まで自分を形作ってきた世界を壊す作業」が必要な段階でそれを強制的に行い、そこから決まり切った型にはめて何かを習得させるシステムになっています。
自分らしさを出すのはこのずっと先の話で、ありのままにとか私らしくなどのヌルい考えでは手に入れられない何かを身のうちにするためにある訓練手段と言うことになります。
しかし考えてみればこれは特に技術や芸事の習得だけに通じることではなく、普通は仕事に就けばイヤでもそうせざるを得ないことであります。
体や心を壊さない程度に頑張るは、実は必須であると私は考えます。
閑話休題。
Aさんへ。
先日はきちんと答えられなくてスミマセンでした。
私の言う覚悟の意味は「脳内世界との決別のため、腹を決めること」です。
また今度このことについてお話ししますね。