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仏教概論16

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仏教概論16

仏教概論シリーズをお読みになって下さる方から「越田さんは仏教徒なんですか?」とよく聞かれます。
仏教概論の最初の方でも描きましたが、仏教をはじめとしてあらゆるイデオロギーへの帰依、あるいはドグマへの信心というものを私はもっていません。
そもそも「信じる」コトが苦手なので、とりあえず人の言い分は疑ってかかるというやや曲がった人間であると自覚しています。

ただ信心や信仰がもつあらゆる面での”効能”というものは強く認めており、出来うることなら何かを信仰してみたいとも考えています(多分これからも無理ですが)。
また人間が厳密には何も信じ得ずに生き抜くことが難しいということも理解しているつもりで、信仰そのものは強要さえされなければ好ましいものであるとも考えています。

さてではなぜ人は「信じる」コトが必要なのでしょうか。

いくつかの稿で書きましたが、基本私たちの脳はある場面やシチュエーションを切り取り、大脳基底核による損/得の判断、あるいは辺縁葉による快不快の記憶がつける意味などによって行動を起こすべきか否かを判断する傾向にあります。
このような「過去データに基づく先回り判断」が今現在の状況にフィットしている蓋然性は低く、むしろ「似ているけどやっぱり違う」状況で部分的にだけ合致した成功例を持ち出し、結果として内部での満足度は低いものになることが予想されます。

他の動物に比べその異常に高い学習能力は、常に過去のデータとそこから予想される成功への最短ルートを検索し続けます。
またその評価も年中無休で怠りなく、ある行動の結果それが自分にとってどのくらいの利得/損失をもたらしたかをびっくりするほど記憶しています。
同時に大脳辺縁系がもたらす「快楽回路の刺激具合」も重要なパラメータで、時として前述の大脳基底核が下した「生きる上で損か得か」という生物として最も必要な判断をぶっ飛ばすことさえあります。

つまり「生きるために最も効率のよい方向性を選択する」もしくは「脳の快楽を最優先する」のどちらかが私たちを突き動かす動機である。
私は現時点ではそう考えるのです。

ただこれだけだとコンピュータによる代用がききそうですが、人間の脳内における最も特徴的な様相は「逡巡する」と言うことにあります。
goo辞書によればそれは
「決断できないでぐずぐずすること、尻込みすること」とあります。

なぜ迷うのか。
仏教的に言えば「正しく状況を把握していない/出来ないから=無明が第一の原因」となりますが、ここはひとつ「迷わないとはどういうことなのか」から考えてみたいと思います。

基本的に脳内で支払われる報酬や、現実で生存確率を上げる現象が私たちの(ほとんど唯一の)行動背景であることは、私の拙い知識経験から導かれるひとつの「結論」になっています。
もちろん反論異論矛盾は山ほどあることが予想されますが、これが大きく間違っていないという前提で考えてみます。

迷いがないと言うことは

1.現状取り得る手段がひとつしか無い
2.初めての経験で選択肢が他にない
3.経験はあるが記憶が無くやはり選択肢がない

などが考えられます。

動物としてほとんど白紙と思われる生まれたての子供や、反射のみで生存しているはずの単細胞生物などは、反射はあっても逡巡がない。
(細部は違うかも知れませんが)大まかにはそう言えることを考えると、

・経験や記憶が無くても反射による選択の違いは観察される

ことから、私たちの迷いの元は「経験や実感がもたらす記憶」が最も有力であると言えそうです。

たくさんの知覚ベースの経験や、それとリンクしやすい知識(他人の主張)で出来ている私たちの「記憶」というやつは、

・損をせず
・出来るだけ最短で都合のよい結果を得たがる

という特性を持つ脳にとってはとてもありがたいデータベースになります。

脳の特性をもう少し別の角度からみてみましょう。

結論から書くと「事象に対する自己有利性を最優先に、その蓋然性の高さを常に探っている」のが私たちの脳であろうと考えられます。
ただときとしてドーパミン作動性システムの誘惑に負けることもありますので、あくまで原則的にと言うことですが。

基本的には 感覚入力→様々な「感覚による嗜好の変化=感情」が生じますが、このとき記憶のデータベースとの関連づけが瞬時に行われ、その行動思考の評価にきわめて強い影響を及ぼします。
たとえば「臭い」という感覚があります。
これは嗅覚が直接届く神経核群を辺縁葉とよび、我々の情動の源になる部位であることから、より強く情動や記憶を呼び覚ます感覚であると考えられています。
あるにおいとセットになっている記憶は、より強くそのときの感情を思い起こさせる。
アロマテラピーなどでおなじみの現象ですが、当然においが強く嫌悪感をもたらすこともしばしばあります。
ある種の危険回避反応ですが、私たちの“経験”という名の新たなデータベースは、その回避行動にさえ疑義を差し挟むことがあります。
つまり「迷う」ワケです。

ここがあまたの人間以外の生物との決定的な違いで、反射的な行動が記憶による過去との整合性を凌駕する人間以外の動物は、「生き延びる」「繁殖する」「それをサポートする」という目的が明確なため、アプローチの選択はあっても目的そのものには逡巡がない。
あるいは迷ってもほんのわずかで、私たちのように生存を脅かすような量や質とは言えないと推測されます。

迷いが私たちの生存を脅かす一方で、より効率的な選択肢を生み出し、ルーティンに組み込めるよう磨かれシステム化されてゆく。
次回そのことが必要になったときは、有力な選択肢のひとつとして真っ先に行動の候補に挙がる。
ただし組み合わされた記憶や、その過程で起きる神経核への“響き方”によっては選択肢の決定に影響が出る。

書き方を換えれば「迷うことは私たちにとって必要でもあるが悩みの元でもある」となります。

さて最初の方に書いたように、なぜ人は何かを信じざるを得ないのか。
迷うという特性がとても関係していることがわかってきました。

言ってしまえば「その方が生きる上で何かと都合がよいから」となります。
過去データの横車を押し戻すほど「直感」に頼るのは難しく、さりとて一つ一つの行動を疑いがなくなるまで吟味するのは様々な制約からもっと難しい。
だからある程度のところで判断を切って捨てる。
こうしなければ生きてゆくことさえままならないのが私たち人間という生物である。
だから何かを決めつけて、それ以外の情報をシャットアウトする。
つまりそれが「信じる」と言うことであるわけです。

仏教特に初期仏教は「信じるな疑え考えろ」が基本コンセプトですが、これは「おまえが普段切り捨てているところをもっとよく見ろ。横着するな考えろ。」と同義でもあります。
なぜならひたすら自分の内面を見定めることが覚りには必要だからです。
「信じる」というのは実用的な心理でありながら、しかし反面物事の全域をくまなく見渡す機能を制限してしまう足かせにもなり得るのです。
何しろ「迷いながらした判断の、その記憶を基礎に次の行動をし、しかも理解しづらいところは切って捨てること」のですから。

信じることが無明の背景であり、迷いをうみだす心理そのものである。
皮肉に聞こえるかも知れませんが、論理を詰めてゆけばそう答えるしかありません。

人間という動物にとって信じることは生きる上で(事実上)絶対必要だが、迷ったときは一度信じていることを解体して、納得できるポイントまで戻ってやり直す。
生きづらさが少しだけ軽減されるかも知れません。
迷ってどうしようもないときはお試し下さい。

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