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仏教概論11

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仏教概論11

前稿仏教概論10で自我について少し書きました。
本稿ではこれをもう少し掘り下げてみたいと思います。

前稿では「脳に刻まれた”脳自身を喜ばすための近道”を自我であると勘違いしている」と言うようなことを書きました。
また意識というものが基本後追いの反応/現象であり、生きる(生き残る)ためにより効率的な行動をするための学習効果の結果である、とも。
この前提がある程度の真実を含んでいるとして今回の話を進めてみます。

自我について私の中でつじつまが合うように記述するなら

1.ある行動について「(生きる上で)有利/不利」の評価が大脳基底核を通して行われる
2.ただしこの際、辺縁系とのリンクが「楽しい/不愉快な思い出」との接点を作ることがある
3.辺縁系での「楽しい/不愉快」も実は脳の内部で起きている記憶に基づいた生理作用への有利/不利の判定がその基礎となっている
4.このようにして出来た「大脳基底核という身体感覚メインのアセスメントと、大脳辺縁系という主観解釈メインのアセスメントが作る反応」が意識の最小単位となる
5.基本的には上記の手順を繰り返し、それぞれに出来たシナプスネットワークが干渉し合って生じる「意識群」が、私たちを生存競争上有利な方へ導く
6.このとき出来る「生存競争に有利な反応経路」は、(推測ではあるが)中脳腹側被蓋野に始まる報酬系に対して働きかけるための強力なスイッチとなる
7.達成感を含む強烈な興奮とセットになった6の反応経路は、それ故に脳自身の要求によって「何よりも大切なこと」として位置づけられる

となります。
私はこれらを「思い込むことそのもの」が自我というものの正体ではないかと考えています。

生き物の最大の欲求である「死にたくない」という思い。
私たち人間は脳という臓器を使って、多分ですがどの動物よりも寿命以外の死というものから遠ざかってきたはずです。
現在生きている動物の中で我々を最も“強い”立場に置くことを可能にしたこの特異な臓器は、その高度な学習能力がまたその最大の特徴と言っても過言ではありません。

しかし同時にその学習能力は、私たちに過去のある場面を切り取って保存しておくことを強要します。
主に成功/失敗の記憶やそのときに起きた生理反応も合わせてメモリーされているこれらの「情報」は、脳に(あくまでも同じではなく)似たシチュエーションにおいて成功/失敗の体験を元に行動することを推奨してきます。
理由は二つ。
ひとつはそれらが生存確率を高めてくれる蓋然性が極めて高いと言うこと。
もうひとつは成功のパターンをなぞる、あるいは逆に失敗のパターンを回避することで(どちらも)報酬系をはじめとした「快感経路」が刺激されうるからです。

ここで大切なのはこの快感経路(と便宜上呼びます)は様々な意識の最小単位が作る「意識群」によって成立している、と言うことです。
快感は何も「気持ちのよいこと」だけから得られるわけではなく、成功、達成/失敗のあいだにある落差が大きければ大きいほど強く感じられますし、生理的な不快を快楽に変換する何かがあれば本人でさえ信じられないような不愉快な場面からでも得られます。
いずれにしても生存を賭けた生物としての正確なリアクションに基づくものではなく、内部の解釈によって生じた記憶の束が作る、ある種のイメージの変動によって成立しているのが私たちの行動の基盤であると言えそうです。
記憶は記録と違って概ね「都合のよいように書き換えられる」のですが、これがまた私たちの判断の整合性を低下させます。

それ故にある場面においては不条理な行動をとったり、変動するイメージ同士が作る思考が行動の一貫性を失わせたりすることが珍しくありません。
ある行動についてやればまずいと記憶に基づく学習効果は警告しますが、同時に似た場面において得た成功体験/記憶は「GO!」と命令した場合、私たちの“心”はなかなか決断を下せません。
つまり「迷う」のです。
しかも「こうだったはず」という思い込みによってです。

ここで最大の問題が発生します。
現実の整合性を持たないまま格納された記憶は、それでも私たちの生存を有利にしたいという基本欲求から生じていることには変わりありません。
しかし似たようなシチュエーションで都合よく成形された記憶に元に起こす行動は、高い確率で失敗すると考えられます。
失敗を冷静に解析できるのであれば問題は生じませんが、失敗=生存の確率を下げてしまったと判断した場合、何らかのやり方でこの危機を乗り切ろうとするのもまた正常な反応です。
あるいは報酬系の作り出す快感が生存有利/不利の判断を凌駕してしまう場合も、私たちは同様に不利益を無視するかのようにムチャをしがちです。

いずれにしてもそんな私たちが安易に向き得る方向は「失敗を無視するか現実を否定する」です。

これは自我の安定、言い換えると快感とセットになった学習効果(意識)によって生じた脳を喜ばす経路を守るための反射的な反応で、それ故にほとんど考えることなく行われる、いわば基本的な生理反応の一つと言ってもよいリアクションです。
つまり私たちの自我(と呼ばれるもの)は、現実との整合性を失えば失うほど内部で孤立します。
そして現実との接点を拒否する故に整合性を必要としないまま強化されてしまう性質を持っているのです。
脳の中に「保護されるべき経路」として最優先命令書をもった流れはそのように私たちの内部に大きな顔をして居座るようになります。

“流れ”なのでその周囲にある意識による誘導がなければ生じ得ないものであり、学習効果によって生じた記憶が作り出すパターンである意識(と称される思い込み)を繙いてゆくといつの間にか薄れてしまうのが、長い間本体とか本心などとあがめ奉られてきたものの全容ではないか。
私は現在そのように考えています。

私は常に思い込みによって失敗をしてきた人間なので、今回のこの結論もまた勉強を進めるうちに「なんか変だな」と思うことになるはずです。
それは単に論理の整合性を厳密にとろうとするために起きるのか、はたまた根本的に方向性が違うと発見するがゆえなのかはわかりません。

ただ必死に考えたこれらが仏教という古代哲学の中で、当時の知見を超えて(当時の言葉で)語られていたことに本当に驚いていると同時に、賢人たちが指向してきたことと大きくぶれていないことが確認できてうれしく思っています。
もう少しこの方向で研究を進めてみます。

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