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プラセボに関して思うこと 4

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プラセボに関して思うこと 4

プラセボに関して思うこと 3で「他力の習得(と言う言い方考え方も変ですが)」についてどうしたら良いのかと書いたのですが、最もベストなのは「何も考えない」であることはおそらくですが間違いありません。
しかし再三書いてきたように、頭を発達させてきた我々にとって「無になる」というのは最も困難なことのひとつでもあります。

と言うわけで少し頭を切り換えて、違う視点から考えてみたいと思います。
前稿において「親鸞上人はすべて(思考も)阿弥陀様によってなされていると考えていた」と書きました。
それをそのまま解釈するなら、病気あるいは問題を作る「思考」も阿弥陀様の力によって成立させられている、ということになります。
極論するなら、私たちは自分が自分であるという思考の核、自我さえも実はよくわからない領域の影響によって保っていることになります。

言ってみれば自我を持っていると考えている端末みたいなものと言うことができるかもしれません。

これはいわば思考実験みたいなものなので、ちょっと言いすぎかなとも思いますが、「他力の論理」に従えばあながちおおはずれと言うわけでもないようです。

こちら、つまり我々の肉体に個人差があり、それによって同じ背景(阿弥陀様の力)なのに違う出力が観察されるとするなら、おのおの振る舞いは違っても実は同じ力によって違う役割を演じている、と言うことにもなります。
また、本稿をはじめとしたシリーズの主題である「プラセボ」の正体がこの背景とつながっているものであるとするなら、自分の(意識とは違う)心の声を聞くことが、肉体や精神活動の健全さを保つ秘訣と言うことになりそうです。

少し整理してみます。

・治癒という現象は我々が従来考えていたようなメカニズム以外の、イメージが困難な領域での話である。
・どうやらそれは従来「プラセボ」と呼ばれていた、定量化の難しいものがその正体であると思われる。
・その背景として関与しているものが「心」であり、しかし其れは意識や精神活動と呼ばれる脳の機能とは別物であるようだ。
・心の力を引き出すに当たっては、常識をはじめとしたあらゆる“思い込み”が足枷となる(可能性がある)。
・その扱いに関して、「他力本願」という概念は実践的なマニュアルとなり得る。
・他力本願を実践するに当たり、最も手っ取り早いアプローチは「信仰」であり、深く追求する価値はある。

といったところでしょうか。

しかし私個人は信仰という心持ちを維持できない以上、別の方法を持って「心の力」を引き出す必要があるわけです。

肉体やそれに付属する意識、精神活動はおのおのの蛇口が違う水道みたいなもので、見えない本管の流れ(心)はみな同じでも、私たちの見えるところではその出力に違いが観察される。
その本管の流れをスムースに引き出せるようにするにはどうするのが(私としては)良いのか。
しかも最上級の「何も考えない」というスキルは使えない。

大分制限がきつい話ですが、一つの答えは見えてきます。
肉体は言うに及ばず、直接制御に関わっている思考ですら自発的ではないとするなら、私たちにできるのは「なすがまま」しかありません。
なすがままを実践するために、凡夫たる私にできるのは「どんなくだらない考えでも“しようが無い”と認めること」です。
認めるための準備としては「自分を甘やかしてみる」です。

正確には「自分の考えを否定せず、”OK,OK ノープロブレム!”と言い聞かせること」です。

事実と違うことが出てくれば、自分の思考が間違っていることはいやでもわかります。
間違っていることは実際問題として修正を必要とします。
しかし思考しているだけなら(事実上)誰にも迷惑はかけません。
ここを黙って、そして否定したがる“意識”をなだめつつ観察する。
そして最終的には一体化を図る。

禅と似たような、しかし治良に生かすために若干アレンジを加えてありますが、心の力を使えるようにするにはそういった準備が必要になるのではなかろうか。
現時点で私はそう考えています。

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