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ものをみると言うこと

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ものをみると言うこと

私の勝手な想像かもしれないのですが、現代社会を生きているほとんどのひとは、まず頭の判断というものを重要視するのではないかと考えています。
要は「自分にとって必要か必要でないか」の判定を知識や経験を元にした基準に基づいて決めているのが大多数だろうと思うわけです。
当たり前ですが、このやり方は非常に有効ですし、多人数でシステムを構築してその中で生きている私たちにとって絶対に必要なことであると断言します。

ですが私たちは往々にしてそのような社会に対しての最大公約数的な見方だけではわからないことに遭遇します。

頭で行う判断というものはたいていの場合自らの経験がベースになっていますが、この“経験”というのはまっさらのままであることはまずあり得ません。
といいますか、まっさらのまま自分の中に定着させることは通常不可能なのです。

唐突ですがコンピュータなどの場合、扱えるデータの形にして保存を行います。
ウィンドウズとマッキントッシュでは同じデータでも違う扱いをしてしまうからです。
ウィンドウズで作った表計算データはマッキントッシュではそのまま使えないことが多いですし、その逆もまたしかりです。
このように人間の場合もその人特有の処理の仕方というのが存在します。
自分の理解できるようにして頭の中におさめておくというわけです。

ちょっとたとえが適切でないかもしれませんが、たいていの人間は経験したことを自分というフィルターを通して体にしみこませているのです。
もちろんそれが悪い!と言うことではありませんが、少なくともその定着したものがありのままのものではない、と言うことは知っておくべきでしょう。
(99.999%くらいの人たちの)頭で考えたことは、社会的適合性を持たせるためには役立つものの、より本質を見抜こうとしたときには力不足になる可能性がある、と私は考えます。

では頭が役に立たない領域では何が本質を見抜いてくれるのでしょうか。

「ああ、これって手を出しちゃまずいな」と思う、その感覚を「第六感」なんて言ったりします。
これは(おそらくは)体が拒否したときの反応だろうと言われています。
「食べたくない」「いきたくない」「したくない」。
もちろん単に気分が乗らない、あるいはわがまま(笑)などと言うこともあるかもしれません。
ですが、職業上このような感覚が生じたとき、それを無視するのは得策ではないと、経験のある専門家は口をそろえて言うでしょう。

これは知識という限られた情報量をベースに構築されたものを頼りにしているわけではなく、体という、生きるためには何でもありとするいわば本能が告げる選択なのです。
ただし頭とはちがい社会性を判断する能力は今ひとつで、本能なるものにしたがってばかりいると周りとのバランスがとりづらくなりますのでご注意を。

治良という、いわばオーダーメイドのチューニングはこの「体の判断」を尊重するかしないかでずいぶんと結果が違ったものになりやすいのです。
なぜなら体のこと、特にその個人が抱えている問題というのは、こちらの知識や経験だけではとうてい判断のつかないものの方が圧倒的に多いからです。

もちろん体(無意識)だって成長もすれば退化もします。
つまり今現在のおける必要な答えを見抜いている可能性はあるものの、より研ぎ澄まされた状態あるいは逆になまった状態ではその感じ方や出る答えは違うものになります。

絶対に正しい答えというものが存在する、と言うことを証明するのはほとんど不可能です。
しかしその時点において、自分にとって必要なことを引き出すのは十分に可能なことです。
「自分に必要なことの定義」はやはり様々な要因で変わりますが、最低限の社会的適合性をクリアしつつ、実現可能な最適解を探す。
そのためには体の声に耳を傾けてみることも必要かもしれません。

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